http://www.keisoshobo.co.jp/book/b100122.html
たとえばこういう本は、勉強しはじめの頃にまず手に取るものだが(「入門」だし)*1、こうした「広く浅く」タイプの本を書くのは「狭く深く」タイプの本つまり研究書を書くよりもむしろ難しい、だろうと思う。いや、どちらも難しい。だけど、入門書は、ひととおりのことをさらっと勉強すれば書けてしまうのではないか、と、ともすれば思われがちなのではないか。
入門書だから不正確な情報が載っていてもいい、というはずもない。それは当然である。入門書でもそこに掲載された情報は正確なものでなければならない。だがそれを実現するために必要な努力を適切にいつも見積もれている人は、さほど一般的ではないのではないか。自分の専攻だったら、哲学史の本を一冊書くことを考えてみればいい。そこでは古代ギリシアから中世近代を経てまあ現代の頭くらいまで書くにしても、それだけの分野を、浅くではあっても、正確に把握していなければならない。浅くと言ったが結局正確に把握するためにはある程度深く勉強していなければならない。ただこの深さが実際にその分野を勉強してみたことのある人にしか窺い知れないものであることが気になっている。
ようはなにが言いたいかといえば、その分野に入り込んでいる人 insider にしか理解 appreciate できないことがある、しかもそれはその事柄にとってクリティカルな、本質的なことであったりするのではないか、ということだ。意味わかんない。別の例を挙げれば、楽器を演奏できる人にとって、音楽の聞こえ方はそうでない人とかなり異なる。根本的に断絶しているとさえいえるのではないか。いや、俺も大してギター弾けるわけではないけど、少なくともこうは言える。楽器を習うことは音楽の聴き方に、新たな次元を導入する。ギターのコードのような楽器の知識だとか演奏の技術だとか。バンドの経験があるならば、さらに次元は加わる。そしてそうした要素は、《音楽そのもののよさ》に単なる剰余として、オマケとして添えられるものではない。言いかえれば、単に耳で聞くというだけでは音楽を鑑賞する仕方として不充分だということになる――というと恣意的だが、しかし「自分の耳だけで判断する」というような態度が唯一最善の鑑賞法だというのも同程度に独断だろう。
だとすると、音楽の純粋な鑑賞などというものはどこにあるのか。ないのではないか。いや純粋というよりむしろ、低次元と高次元とがあるのではないか。しかし高次元の鑑賞が低次元を含むとも限らない。今聞いてみるとたわいないと思える音楽が数年前の自分を感動させていたとしたら、この違いはなんなのか? 今の鑑賞がより正しいとすべきなのか? ここでも、〈新しいものが正しい〉という非論理的なテーゼに議論は回収されてしまうのだろうか。文章が調子に乗ってまいりましたね。つまり……虚心坦懐に作品を鑑賞するなんてのはむしろ不可能で、われわれはいろんなことを考えながら、なんらかの枠組みを設けたうえで、なんらかの文脈のもとで、作品と向き合ったり並んで歩いたり眺めまわしたりしてみるしかないんだろう、と。あなたが純粋な鑑賞と思っているものがじつは「共感できる言葉を探す」というありうる鑑賞の一つでしかない可能性。
で最初のほうに戻れば、大学学部四年、(広義の)研究者としては末端の末端の末端というところだが、そしてさほど熱心に勉強もしてこなかったが、それでもそこらへんを歩いてる人よりはかなり哲学のことを知っている(というか……)はずで、そのくらいの段階まで来ないと入門書を書く難しさも想像することができなかったんだなあと詠嘆する次第なのでありました。世界には自分の見えてない世界がたくさんあるねえ。

*1:とはいえ、実際はいちばんはじめにこうしたものを読んでもよく飲み込めなくて、むしろ第二ないし第三段階あたりに位置づけられるべきものとも思うが