Kuß

なにかができる気がする日曜日の朝! 歯を磨きました。歯を磨いてさっぱり、気持ちがいい。食事はしあわせだ。とても臭いセリフだがじっさい、そうしたことにしあわせを――「しあわせ」という言葉はうさんくさい――感じられるというのは、自分の精神が乱されず安定していることを示してもいるのだろうな。もちろんそれが世間の、周囲のさまざまな懸案をほぼ無意識にシャットアウトすることで成り立っていることをも意識したうえで。
貧乏性ということでもある。前回の日記で、「低水準が苦痛にならない悪い意味での貧乏性」というフレーズを吐きだしたが、これだ。より低き現状が苦にならない。むしろ低き現状として認識されない。高低は比較から出てくる――つまり、より高き目標が視野に入ってこない限り、現状は「より低きもの」としては認識されない。入不二基義が次の本の一番目のエッセイでそうしたことについて書いていた:
足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想
でなんでしたっけ(便所に行っていた)。より高きものの暴力的な侵入によってわれわれの現状はより低きものにおとしめられる。インターネットが普及したいまでは、人びとがますます劣等感を育てていくのは無理もない。特に Twitter では哲学の研究者とか院生とか勉強のできる学部生とか下手すると高校生とかがわんさといて危険きわまりない。自分自身はもうだいぶ劣等感傾向は弱まった――ネットに参入するのが比較的早かったため、数年前に通過しきった、といってよいだろうか――それとも自分自身の、なんらかの意味での「成長」のせいか――あるいは、単に生きててわりと楽しいから、そうしたことに関心を向けることが少なくなったということか――が、まあ、話ぜんぜん変わってしまうけども、ネットが感情面にかんしてよい影響を与えることはきわめてまれだと思う。いや、まあ、べつにそうしたことを語りたいわけではない。
ああ、そうそう、卒論の中間報告をする会みたいのが最近ありまして、それでなんとなくテーマが固まった気がする。というかまあ、報告したとおりのテーマでいく、ということで。近頃激しく迷走していて、やれヘーゲルだの中世スコラ哲学だの科学哲学だの非形式論理学だのぐるぐる思いを巡らせていたのですが、なんかこうまあ決まったな、という感じ。そこには論理的な説得の手続きがあったわけでもなく、ただまあ具体的にこの先どうやっていこうか?という話をすることで心は決まっていくものなのかなあと思った。
あと、前年度いっぱいでバイトの契約が切れて、ということは前に書いたやもわかりませんが、それで今お仕事してないので、なるべく節約しよう今年度は勉強だけして過ごそうと心に決めていたのですけども、それに反して最近はいつになく食事に行ったりとかようは遊んでるというか知り合いとのつながりがすこし緊密になってるくらいの傾向があっていつになく大学生らしいなあと思いつつもお金なくなるの時間の問題なので短期でもいいからなんかやらないとなあと思っております。あと自動車の免許。