初心に帰って、みたいな

「書くことがない」から日記を始めてみる。いや正確には、書くことがないけど日記を書く、ということをする。
この日記のタイトルが示している通り、しかしこれはすでに“あの”「書くことがない」ではない。過去の模倣をするかぎり、この「書くことがない」は直接的・無媒介的なものではなく、メタ的な態度をとってしまっている。いや、これは別に過去の再現をやってるわけではない。ぼくはこのたび新しく、未だ発されたことのない「書くことがない」をはじめている。ただそのさいに過去の同種の事例に言及される、いわば過去は現在に重層的に積み重なっている、現在にぼこぼこ穴があいてそこから過去が覗いている、のか。
直接性ないし無媒介性、それに対してメタ性。そうしたものが近頃テーマだ。メタ的なる態度はつまり媒介された態度、間接的に成立する態度だ。 A なる立場がなければ A に対するメタは存立しない。そして僕自身は直接的で無媒介的な生を目指す。世界にべったりくっついた生。しかしそれはどういうことか? うじうじ悩まない生。迷わず行動する生。一説にはそういうものだ。だが迷わず行動できるためには、あらかじめガイドラインを用意しておく必要もあるのではないか? その場で適切な判断ができない問題もあるのではないか。ところでうじうじ悩むことは一面では気持ちいいことでもある。悩みは探求の行動ではない。ただの状態ないし態度であって、直面してる問題の問題性をながめまわして味わう。
ところで苦痛を伴う境涯を肯定的にとらえる人を一律にマゾだマゾだと処理する人はてめえの思考の節約甚だしいなと思います。つまり事実の複雑さをまるで軽視してる疑似科学。コミュ障とか言ってる奴も同断だっくそっ。それにマゾヒズムだって単にすべての苦痛を快楽にする関数だってわけでもないだろう。でも人と話すときってそんな頭回らないし俺はこれ書いてる時もゼリーの中を泳いでいるが如き鈍さに暗澹としておりますがそれはそれとして、だから乏しいリソースで盛り上がるにはこういういいかげんな把握であることないことないことないこと言うのは有効な手ではあるのかなあなんて思わないでもないです。特に心暖まらない話ですが。そういえば心暖まりたいですね。
人と話してて critical な部分に喰い込まずになんか平行線というか手ごたえナシな感じで終わってしまうことが多いのは、結局俺が相手から仕掛けてくる、うながしてくれる、補助してくれるむしろ一から十まで導いてくれることをかなりいつも期待してるからなんだろう。それがほとんど不合理な期待であることに気付きつつも、十回に一回くらいのペースで期待が叶ったりすることもあるのでこの甘い戦略を捨て切れずにいる、ってのはたぶん何度も書いてる。
じゃあどうすればいいか。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b100122.html
たとえばこういう本は、勉強しはじめの頃にまず手に取るものだが(「入門」だし)*1、こうした「広く浅く」タイプの本を書くのは「狭く深く」タイプの本つまり研究書を書くよりもむしろ難しい、だろうと思う。いや、どちらも難しい。だけど、入門書は、ひととおりのことをさらっと勉強すれば書けてしまうのではないか、と、ともすれば思われがちなのではないか。
入門書だから不正確な情報が載っていてもいい、というはずもない。それは当然である。入門書でもそこに掲載された情報は正確なものでなければならない。だがそれを実現するために必要な努力を適切にいつも見積もれている人は、さほど一般的ではないのではないか。自分の専攻だったら、哲学史の本を一冊書くことを考えてみればいい。そこでは古代ギリシアから中世近代を経てまあ現代の頭くらいまで書くにしても、それだけの分野を、浅くではあっても、正確に把握していなければならない。浅くと言ったが結局正確に把握するためにはある程度深く勉強していなければならない。ただこの深さが実際にその分野を勉強してみたことのある人にしか窺い知れないものであることが気になっている。
ようはなにが言いたいかといえば、その分野に入り込んでいる人 insider にしか理解 appreciate できないことがある、しかもそれはその事柄にとってクリティカルな、本質的なことであったりするのではないか、ということだ。意味わかんない。別の例を挙げれば、楽器を演奏できる人にとって、音楽の聞こえ方はそうでない人とかなり異なる。根本的に断絶しているとさえいえるのではないか。いや、俺も大してギター弾けるわけではないけど、少なくともこうは言える。楽器を習うことは音楽の聴き方に、新たな次元を導入する。ギターのコードのような楽器の知識だとか演奏の技術だとか。バンドの経験があるならば、さらに次元は加わる。そしてそうした要素は、《音楽そのもののよさ》に単なる剰余として、オマケとして添えられるものではない。言いかえれば、単に耳で聞くというだけでは音楽を鑑賞する仕方として不充分だということになる――というと恣意的だが、しかし「自分の耳だけで判断する」というような態度が唯一最善の鑑賞法だというのも同程度に独断だろう。
だとすると、音楽の純粋な鑑賞などというものはどこにあるのか。ないのではないか。いや純粋というよりむしろ、低次元と高次元とがあるのではないか。しかし高次元の鑑賞が低次元を含むとも限らない。今聞いてみるとたわいないと思える音楽が数年前の自分を感動させていたとしたら、この違いはなんなのか? 今の鑑賞がより正しいとすべきなのか? ここでも、〈新しいものが正しい〉という非論理的なテーゼに議論は回収されてしまうのだろうか。文章が調子に乗ってまいりましたね。つまり……虚心坦懐に作品を鑑賞するなんてのはむしろ不可能で、われわれはいろんなことを考えながら、なんらかの枠組みを設けたうえで、なんらかの文脈のもとで、作品と向き合ったり並んで歩いたり眺めまわしたりしてみるしかないんだろう、と。あなたが純粋な鑑賞と思っているものがじつは「共感できる言葉を探す」というありうる鑑賞の一つでしかない可能性。
で最初のほうに戻れば、大学学部四年、(広義の)研究者としては末端の末端の末端というところだが、そしてさほど熱心に勉強もしてこなかったが、それでもそこらへんを歩いてる人よりはかなり哲学のことを知っている(というか……)はずで、そのくらいの段階まで来ないと入門書を書く難しさも想像することができなかったんだなあと詠嘆する次第なのでありました。世界には自分の見えてない世界がたくさんあるねえ。

*1:とはいえ、実際はいちばんはじめにこうしたものを読んでもよく飲み込めなくて、むしろ第二ないし第三段階あたりに位置づけられるべきものとも思うが

AntiTwitter

これから風呂に入る。今日はあとは風呂入ってあれして寝るだけだが写経ぐらいはしておこうと思う。写経は比喩的な意味でというかお経でないなにかを写すので文字どおりには写経でないのですが当該のテキストの理解がすこしでも進むようにという牛の歩みながらも苦しい決断としての解決策と考えると写経は写経らしいというかごめんなさい、誰にもわかんないと思うわかんないというのは誰にもというかわかる書き方をしていないからであってわかる書き方をしないのはべつに意図的だというわけではなくてこれが今のぼくの限界だというか実際限界ではあってでも「今の」という断りつきであることも理解していただきたく要するに僕は思考がツイッターに最適化されすぎたなと夜な夜な思っていて思っていてというか最適化という表現はおそらくはコンピューター関係用語だと思うので「クラスタ」と似たような事情があると思うのでだからというわけでは必ずしもないが専門的な知識をもたない乃至専門的な共同体に属さない自分が我が物顔して使ってよいものかどうか迷いためらうこともある。
ひと段落して今度はなにを書こうかと数秒思案した結果あれっ結局何を書こうとしたんだっけ、表題のとおりAntiTwitterでありました。アンチツイッター。ぼくはあまのじゃくですから、あまのじゃくですから、ツイッターなんて嫌いです。主に部活のひとたちの間でツイッターの広がりが著しいですがそういうのみると意地でも俺は参加してやるものかと思います。そこに思想があるわけではございません。あるとすれば一様の同意、意見や立場の偏り、そうしたものを避ける態度、防御反応、バランス、ようは全体主義的状況を避けるってな意識はもってはいます。でもまあ保守的というわけでしょう。保守的な人もいてもいいってか俺自身は嫌いな人のなかに保守性を見出したりなんか近親憎悪ってやつ??なんて夜な夜なふとんの中で考えたりしますが考えるわけがありませんがまあさしあたり意見のバランスをとるという名目のもとに保守主義者は世界に居場所を用意されますね。うぇええい。
今日は日記を日記を日記を書かなきゃならないと思ったのでツイッターは書かないで日記を日記を書かなきゃならないと思っていたので書いてるんですけども書こうとするんですけどもまともに書いたら、ツイッターに最適化された頭で散文なんざ書き連ねた日にゃといいますかそもそも書き連ねられないと思ったので自動筆記ぎみにキーボードをたたきカーソルを滑らせております。カーソルって英語ですかどう綴るんでしょうね? 不思議ですね? 風呂入りたいです。あとねー写経してから少なくとも寝たいよねー。そういえばJUDY AND MARYポップジャムじゃなくてなんだっけえ、パワーソースかTHE POWER SOURCEをちかごろiPodに入れて聞いてるんですけどもこれほんと名作ですよね、曲がよくてセンスがあって歌もよくてなにより歌詞がいい。あたしのアンテナは曲がって折れてですよ。ヴォーカルのYUKI氏は詩の心があると存じます。言い忘れたがスキがあるのもいい。むしろ隙だらけで隙を感じさせないくらいなのか?よくわからないね。ただセールス的にはこの作品だけで満足してしまうので他の作品を聞いてみようという気になかなかならないことですね。
あとはまあだから日記ですよ。時代は散文。てゆうか140字未満を連ねるだけでなんにでもなれるとかそんなうまい話があるわけがない。俳句でも書いてろ。書いてみせろ。もうちょっと続けようとすれば続けられる気配はするのですけど手が痒い。指の第一関節あたり?がかゆい。第一?先端のほうだよ。かゆい。アトピーです。軽度の。大人になっても直らないですね。そうそう言い忘れたけどJUDY AND MARY聞いてると恋人への言及がというかそいつが実在する人物を指示してるかは別として他の人とintimateな関係をもったことがないと書けないようなことを歌ってみせるので俺も恋愛をしなきゃなあと思いました。彼女をつくるきっかけが90年代のポップソングでもいいじゃない。恋愛をしようという動機のもとに恋愛をしたっていいじゃない。ほんとうの愛なんてほんとうはないじゃない。でも僕はきみがとても気にかかります。あと自動車免許やってバイトをやんないといけないの。

Kuß

なにかができる気がする日曜日の朝! 歯を磨きました。歯を磨いてさっぱり、気持ちがいい。食事はしあわせだ。とても臭いセリフだがじっさい、そうしたことにしあわせを――「しあわせ」という言葉はうさんくさい――感じられるというのは、自分の精神が乱されず安定していることを示してもいるのだろうな。もちろんそれが世間の、周囲のさまざまな懸案をほぼ無意識にシャットアウトすることで成り立っていることをも意識したうえで。
貧乏性ということでもある。前回の日記で、「低水準が苦痛にならない悪い意味での貧乏性」というフレーズを吐きだしたが、これだ。より低き現状が苦にならない。むしろ低き現状として認識されない。高低は比較から出てくる――つまり、より高き目標が視野に入ってこない限り、現状は「より低きもの」としては認識されない。入不二基義が次の本の一番目のエッセイでそうしたことについて書いていた:
足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想
でなんでしたっけ(便所に行っていた)。より高きものの暴力的な侵入によってわれわれの現状はより低きものにおとしめられる。インターネットが普及したいまでは、人びとがますます劣等感を育てていくのは無理もない。特に Twitter では哲学の研究者とか院生とか勉強のできる学部生とか下手すると高校生とかがわんさといて危険きわまりない。自分自身はもうだいぶ劣等感傾向は弱まった――ネットに参入するのが比較的早かったため、数年前に通過しきった、といってよいだろうか――それとも自分自身の、なんらかの意味での「成長」のせいか――あるいは、単に生きててわりと楽しいから、そうしたことに関心を向けることが少なくなったということか――が、まあ、話ぜんぜん変わってしまうけども、ネットが感情面にかんしてよい影響を与えることはきわめてまれだと思う。いや、まあ、べつにそうしたことを語りたいわけではない。
ああ、そうそう、卒論の中間報告をする会みたいのが最近ありまして、それでなんとなくテーマが固まった気がする。というかまあ、報告したとおりのテーマでいく、ということで。近頃激しく迷走していて、やれヘーゲルだの中世スコラ哲学だの科学哲学だの非形式論理学だのぐるぐる思いを巡らせていたのですが、なんかこうまあ決まったな、という感じ。そこには論理的な説得の手続きがあったわけでもなく、ただまあ具体的にこの先どうやっていこうか?という話をすることで心は決まっていくものなのかなあと思った。
あと、前年度いっぱいでバイトの契約が切れて、ということは前に書いたやもわかりませんが、それで今お仕事してないので、なるべく節約しよう今年度は勉強だけして過ごそうと心に決めていたのですけども、それに反して最近はいつになく食事に行ったりとかようは遊んでるというか知り合いとのつながりがすこし緊密になってるくらいの傾向があっていつになく大学生らしいなあと思いつつもお金なくなるの時間の問題なので短期でもいいからなんかやらないとなあと思っております。あと自動車の免許。

日記

「アシュタサポテ」に、「鬱のときは語学がはかどる」というようなことがどこかに書いてあったのを思い出して、パソコンつけてすこし探したのだが見つからなかった。ただ Internet Archive を経由してアシュタサポテの文章をぱらぱら読んでいたら自分も日記を書こうかという気になったので今書いている。ところでなぜ冒頭の文句を探そうという気になったのかといえば、今さきほどの自分がそのような状態、その言葉の意味がわかる気がしたからであって、まあ鬱じゃないんだけど気力がないし、ポジティヴな力が抜けているのでじゃあ翻訳でもやるかと演習のテキストを出して段落頭の "Ferner," を「そのうえ、」と訳したところで冒頭のそれを思い起こしたのだった。
雨のせい。それから自動車教習所でつかれた。実際つかれたのだと思う。自分のコミュニケーション下手さかげんが身にしみる。あと運転も下手だわ。特別の理由もなくマニュアル車を選んだのだけども同時に 3 つも 4 つも操作できないわ。結果混乱しておかしな操作をしたり操作を忘れたりして、いや慣れといえば慣れなんだろうし実際まだそこまで乗車回数を重ねたわけでもないのだから速断を承知で言いたいのだけども俺は車の運転に向いてないと思う。教習が終わったあと必ず考えるのは、今からお金返してもらってキャンセルできないかなあということであり、でなんで運転向いてないと思うの?
それに即座に答えられないのが人間的な欠陥だと思う。運転向いてないと思った理由は確かにあったはずで、でも答えだけ抱えて過程はこぼしてしまう。理由はようはまあ脳ミソのリソースが低いのですよね。すでに言ったけどいっぺんに 3 つも 4 つもの要素を把握しつつものごとを進めるということが苦手で、かといって一つのことに向かう集中力が高いかといえばそういうわけでもなく、ようは普段あたま使ってないということなのだろう。(´Д`;)
ところで今日はパソコンを起動している時間が短かったこともあり、時間を比較的セーブできているという気がする。パソコンつけててもなんもないなということを皮膚感覚レベルで理解できている。昨日今日と学校が休みで家にいる日が続いて、なんというかなにかが定着してきたように感じる。昨日はもうすこし揺れ動いていた。ツイッターに投稿する代わりにメモ帳に書きためてたが途中で飽きた。

11:53 特別の用事がないので十二時近くまで寝ていた。雨は昨日から降り続けている。ふとんをたたむ前に軽微なゆううつ第一波。きみのことを考える。いったいどうすればいいのかわからない。もう望みはないように見える。さっさと玉砕してしまうか――つまり、きちんとふられたいのだが――、方法はある、だけど、これも失敗の可能性が示唆されている。それでもやるしかないのか。自分が彼女のことを好きなのか、なんなのか、よくわからない。ポジティヴな意味で好いているのとすでに少し違う意味で彼女に執着しているように見える。楔だ。
12:46 どーなってんの? 世界。とはいえそれが世界の世界らしい姿なのだということも、たんなる容れものとしての世界、ユーザにやさしいシステムが組み込まれてるわけではない世界なのだということも同時に明らかなのであって。「同時に」はよく考えず言葉の上だけで発しましたが。こちらからはたらきかければ何らかの反応を(無反応という反応をも含めて)返してくる。とはいえ無反応ばかりではおもしろくないのでなんとか何らかのポジティヴな意味での反応を返すようにうまくはたらきかけようとは思うわけで。それって政治だね。
抽象的な意味での政治について書いたものが読みたい。

今日はむしろあきらめモードである。あきらめというか……期待は一応するけど、期待が外れることが気分を直接左右することはなくなった。自分からなにかしようかと思っていたときもあったが、よくわからない。それが確実に破局に導くわけでも、無反応が見え透いているわけでも、ないのだが、同時に、よい結果が期待できるわけでもない。その行動を起こさない強い理由もないかわり、行動を起こす大きなメリットも見当たらない。じゃあ、どうでもいいことだったんじゃないか? むしろ、世の中にはもっとマシな施策が存在してて、自分はそれを見いだせずにいる、そんな状態だと思う。いつまで下手なキスしてるんだ。
自動車の話に戻って、ぼくはギアをセカンドに入れるのをよく忘れる。いや忘れるんじゃなくて断念する。走行距離が短いと、ここはいいやと思っちゃう。これは技術の問題というよりぼくの性格の問題、つまりもっと根深い問題なのだ。まあ根深いからあきらめようというよりはこれを機に性格もすこしずつ矯正していきたい所存なのですが、ともかくもこの悪い意味でのあきらめのよさ、低水準が苦痛にならない悪い意味での貧乏性、は、僕の生活のかなり多くの局面を成功から引き離しているものと推測される。でも安心してギアを変えれる機会なんてそうそうないしねえ、というよりはこの距離じゃ不安と思われるところでも案外じゅうぶん変えられるものである。自分はものごとの失敗率を大きく見積もりすぎているのかもしれない。
自分はいろんなものを見ずにものごとを進めようとしていると思う。視野のすみっこで状況確認をするのもそうだし、乏しい情報から推測をふくらませてふくらませて「ヘーゲルはこれこれのことを言ってる」と断定して卒論のテーマにしようとしてみたり、でもぜんぜん読んでないのですが、まあ全部読んでから発言しろよとは言わないが、読めるとこは読んでおくがいいとは思うわけで。つい自分の頭の中だけで完結させてしまう癖がある。もっと世界から情報を得るように努めよう。
夕方、帰宅後はなんか疲れがあって酒を飲んだら本が読めなくなって後悔し、夕食後はゆううつ無気力になって寝ようと思ったけどそれもなんかちがって、でも詩なんか準備なしに書けるわけがなくて、死にたい死にたいとずっと心の中で口にしていた。死にたいわけでもないのだが死にたい死にたい言ってるのが比較的いちばんしっくりくる。おちつく。

昨日と明日

消化する暇もなく、か*1。暇がないわけではない。むしろ暇だ。積極的に暇と言っていいくらいに余暇時間をもっている。だがやることはある。演習で読むテキストの読解。そつろんのテーマ検討。バイト探し。あの人との関係をどうするか。自動車学校の予定。部活でどうふるまうか。
どうふるまうべきか、考えざるを得ない出来事があった。自分(たち)が未熟であること。大人にならねばならないこと。最終学年だし。大人になると一口で言って、即座になれるものではないけど、でも、大人になるというのはかつて考えていたよりもずっと具体的な目標であり、現実的な、目の前に迫っていて手を伸ばすことのできる目標だという気がする。大人とはなにかを理解するための材料がそろってきた。そうは言っても、こうした強気な自分はイメージの中で成功例を演じるだけで、次々訪れる現在に絶えず直面する現実の自分は視線のやり場に迷って人のいない場所に焦点を定めていたりする。でもなあ。
なにもせず互いに一切関与せず家に帰るだけの生活なら、過剰に視線を注いで嫌われる方がましだとほぼ迷いなく言える気がする。好きな人の話ではない。この生活で出会う誰に対しても。一方でどうやら自分のからだは嫌われるのを恐れているらしい。それははっきり自覚はできない。でも経験と反省を重ねた結果、そう仮説を立てるのが適当だという結論に今は至った。内観的心理状態と身体の反応に乖離のある人間だった。心の中は落ち着いているのに身体が緊張してふるえるとか。今もそうだ。そしていちばん深いところで、いちばん強い権限をもって拒否を下すのは身体のほうなのだから、強靭な身体をつくらなければならない。それは筋トレ的な意味でではなく、なんというかいわば精神的にタフな身体。
自分の感じていることを確りと周りに、相手に表明する。まずはそれだ。同時に、それさえできれば、でもある。高いハードルだけど、多分これより低いハードルは用意されていない。そしてそれを実現する機会を増やすためには、練習を、実践を増やしていくしかないだろう。

*1:高校〜浪人の時分は「すべきこと」として把握できることがらがそもそも少なかった――勉強するか、ネットするか、読書するか。だから暇にまかせて日記を書いた。日記を書く頻度が高かったから、今日や近頃を振り返る密度が高かったということだ。ゆっくり、日々を消化しつつ暮らしていた。と、言って言えないことはない。