早く人格を完成して、その後の人生を楽しみたい。かつてそんな焦燥を感じていた。この「人格」は、狭義の人格だけでなく、趣味も含まれている。要するに、「私はこんな人だ」という、ぶれない輪郭をきっちりと確定して、それからひとつの人格として、個性をもち他の者から際立った個体として。暮らしていきたいと思った。たとえば哲学ができて、エレクトロニカを聴いていて etc. といったプロフィールに見合った内実を手に入れようとした。哲学やエレクトロニカについて尋ねられればその分野の広い知識を踏まえ的確な、それでいて人になるほどと思わせるような interesting な回答をいつでも返すことのできる、そういう人に最終的にはなるのだと考えた。
だが実際にはいまでもそうなってはいない。当然といえば当然だ。理想に現実が追い付くのは定義からして不可能だ。だが、わりに達成できそうな目標ではないか。じっさい上記のような内容を実現できているとみられる人もたくさんいる。だから、そういう人になれていないのは、第一には僕の努力が足りなかった。与えられた環境も彼らよりは劣っていただろう。絵を書くのもそうだが、たぶんああいうのは長らくやってるうちにできるようになる。語学もそうだ。僕は上達したいものに対して、じゅうぶんな時間を用意していない。だから僕と彼とは、素質において異なるのではない。
いま、僕が冒頭に述べたような焦燥を感じているかといえば、ほとんど感じていない。人格的低水準ともいうべき状況に慣れたというのもある。その一方でいくらかは自分も improve してきたことを思わせる世界の眺めもある。哲学の道は果てしなく長いことを知りつつある一方で、自らの思考のやり方にはかなりの進歩を実感としてもっているし、聴いている音楽の幅も知識もいくらか広がった。狭義の人格のほうは(それは、すなわちコミュニケーション能力とほぼ重なるわけだが)、かなりまだまだではあるけど。手はすこしずつ打っている。そしてすこしずつしか打てないことも知りつつある。
……いや、ただの経験則だが。こうして spoil されていくのだといえばそうなんだろう。生活している時間が長くなるほど、一発逆転という観念は浮かばなくなる。でもそうでしょう。ある経験を境にして自分の人生が 180 度変わった、なんていうのは話をわかりやすくするための誇張だと僕は思う。実際は環境のなかで、すこしずつ変わってきたに違いない。そう言えるのは僕の来し方がそんな調子だったからに他ならないわけだが。ただまあ、一発逆転を待ってるのはこつこつ変えていく努力がめんどくさいからでしょ、と今は思う。高校生のなにもできなかった僕はそんな感じだったから(これも誇張だ)。
要するに、「分をわきまえる」ということになるのかもしれない。あるいは現状把握。今の自分にどの程度のことができて(可能性の話ではなく、実際にできていて)(どうもあのころの僕は、可能性ばかり考えていて現実性という尺をもたなかった)、そしてそれをふまえて今後近いうちに何ができるようになりそうか、そのためには何をすればよいか、そういったことを evaluate 、吟味する態度をもたなかった。そうできるほど落ち着いてなかったというのはむろんある。そしてそれが環境の制約というやつの一端だ。だからある年代において冷静な分析より焦燥が支配するのは仕方ないことと言える。
その「ある年代」の人たちの焦燥を、あるいは不可能性からくる苦悩を、取り除いてやるべきなのかはよくわからない。世界に対してわりかし軽薄な態度をとっている僕とて高校生の自分は焦燥とか苦悩をいくらかは経験したわけだけども、それらが今の自分に対してプラスに働いているとは思わないし、未来の自分に対してもなんらか資するとは思っていない。むしろ、あのころもうちょっと楽に暮らせてたらなあと思う。この話に対するもっとも素直な感想としては、「人生には苦しみも必要だよ」というたぐいの、同調圧力めいた、倫理まがいの“常識”なのだが、まあよくわからない。苦しみはどう必要なのか。あのころの経験で何か人に対して優しくなれたとは思えないし、あの苦しみのおかげで今の人生をよりよく味わうことが出来てるとも思えない。多少話のたねにはなるけども。
とはいえこういうのは考えても仕方がない。自分がどういうやつか分かってくるには、どうしても経験と時間を重ねなきゃならない。かく言う僕もまだ 21 だし。その年相応の焦燥や苦悩はやはり取り除くことができない。ただ、そういうときに「大人」がステレオタイプなアドバイスを投げかけても無意味だってことは言っておきたい気がする。そういうのは大人にしか通じないコミュニケーション手段なんだから。