日記

「アシュタサポテ」に、「鬱のときは語学がはかどる」というようなことがどこかに書いてあったのを思い出して、パソコンつけてすこし探したのだが見つからなかった。ただ Internet Archive を経由してアシュタサポテの文章をぱらぱら読んでいたら自分も日記を書こうかという気になったので今書いている。ところでなぜ冒頭の文句を探そうという気になったのかといえば、今さきほどの自分がそのような状態、その言葉の意味がわかる気がしたからであって、まあ鬱じゃないんだけど気力がないし、ポジティヴな力が抜けているのでじゃあ翻訳でもやるかと演習のテキストを出して段落頭の "Ferner," を「そのうえ、」と訳したところで冒頭のそれを思い起こしたのだった。
雨のせい。それから自動車教習所でつかれた。実際つかれたのだと思う。自分のコミュニケーション下手さかげんが身にしみる。あと運転も下手だわ。特別の理由もなくマニュアル車を選んだのだけども同時に 3 つも 4 つも操作できないわ。結果混乱しておかしな操作をしたり操作を忘れたりして、いや慣れといえば慣れなんだろうし実際まだそこまで乗車回数を重ねたわけでもないのだから速断を承知で言いたいのだけども俺は車の運転に向いてないと思う。教習が終わったあと必ず考えるのは、今からお金返してもらってキャンセルできないかなあということであり、でなんで運転向いてないと思うの?
それに即座に答えられないのが人間的な欠陥だと思う。運転向いてないと思った理由は確かにあったはずで、でも答えだけ抱えて過程はこぼしてしまう。理由はようはまあ脳ミソのリソースが低いのですよね。すでに言ったけどいっぺんに 3 つも 4 つもの要素を把握しつつものごとを進めるということが苦手で、かといって一つのことに向かう集中力が高いかといえばそういうわけでもなく、ようは普段あたま使ってないということなのだろう。(´Д`;)
ところで今日はパソコンを起動している時間が短かったこともあり、時間を比較的セーブできているという気がする。パソコンつけててもなんもないなということを皮膚感覚レベルで理解できている。昨日今日と学校が休みで家にいる日が続いて、なんというかなにかが定着してきたように感じる。昨日はもうすこし揺れ動いていた。ツイッターに投稿する代わりにメモ帳に書きためてたが途中で飽きた。

11:53 特別の用事がないので十二時近くまで寝ていた。雨は昨日から降り続けている。ふとんをたたむ前に軽微なゆううつ第一波。きみのことを考える。いったいどうすればいいのかわからない。もう望みはないように見える。さっさと玉砕してしまうか――つまり、きちんとふられたいのだが――、方法はある、だけど、これも失敗の可能性が示唆されている。それでもやるしかないのか。自分が彼女のことを好きなのか、なんなのか、よくわからない。ポジティヴな意味で好いているのとすでに少し違う意味で彼女に執着しているように見える。楔だ。
12:46 どーなってんの? 世界。とはいえそれが世界の世界らしい姿なのだということも、たんなる容れものとしての世界、ユーザにやさしいシステムが組み込まれてるわけではない世界なのだということも同時に明らかなのであって。「同時に」はよく考えず言葉の上だけで発しましたが。こちらからはたらきかければ何らかの反応を(無反応という反応をも含めて)返してくる。とはいえ無反応ばかりではおもしろくないのでなんとか何らかのポジティヴな意味での反応を返すようにうまくはたらきかけようとは思うわけで。それって政治だね。
抽象的な意味での政治について書いたものが読みたい。

今日はむしろあきらめモードである。あきらめというか……期待は一応するけど、期待が外れることが気分を直接左右することはなくなった。自分からなにかしようかと思っていたときもあったが、よくわからない。それが確実に破局に導くわけでも、無反応が見え透いているわけでも、ないのだが、同時に、よい結果が期待できるわけでもない。その行動を起こさない強い理由もないかわり、行動を起こす大きなメリットも見当たらない。じゃあ、どうでもいいことだったんじゃないか? むしろ、世の中にはもっとマシな施策が存在してて、自分はそれを見いだせずにいる、そんな状態だと思う。いつまで下手なキスしてるんだ。
自動車の話に戻って、ぼくはギアをセカンドに入れるのをよく忘れる。いや忘れるんじゃなくて断念する。走行距離が短いと、ここはいいやと思っちゃう。これは技術の問題というよりぼくの性格の問題、つまりもっと根深い問題なのだ。まあ根深いからあきらめようというよりはこれを機に性格もすこしずつ矯正していきたい所存なのですが、ともかくもこの悪い意味でのあきらめのよさ、低水準が苦痛にならない悪い意味での貧乏性、は、僕の生活のかなり多くの局面を成功から引き離しているものと推測される。でも安心してギアを変えれる機会なんてそうそうないしねえ、というよりはこの距離じゃ不安と思われるところでも案外じゅうぶん変えられるものである。自分はものごとの失敗率を大きく見積もりすぎているのかもしれない。
自分はいろんなものを見ずにものごとを進めようとしていると思う。視野のすみっこで状況確認をするのもそうだし、乏しい情報から推測をふくらませてふくらませて「ヘーゲルはこれこれのことを言ってる」と断定して卒論のテーマにしようとしてみたり、でもぜんぜん読んでないのですが、まあ全部読んでから発言しろよとは言わないが、読めるとこは読んでおくがいいとは思うわけで。つい自分の頭の中だけで完結させてしまう癖がある。もっと世界から情報を得るように努めよう。
夕方、帰宅後はなんか疲れがあって酒を飲んだら本が読めなくなって後悔し、夕食後はゆううつ無気力になって寝ようと思ったけどそれもなんかちがって、でも詩なんか準備なしに書けるわけがなくて、死にたい死にたいとずっと心の中で口にしていた。死にたいわけでもないのだが死にたい死にたい言ってるのが比較的いちばんしっくりくる。おちつく。