昨日と明日

消化する暇もなく、か*1。暇がないわけではない。むしろ暇だ。積極的に暇と言っていいくらいに余暇時間をもっている。だがやることはある。演習で読むテキストの読解。そつろんのテーマ検討。バイト探し。あの人との関係をどうするか。自動車学校の予定。部活でどうふるまうか。
どうふるまうべきか、考えざるを得ない出来事があった。自分(たち)が未熟であること。大人にならねばならないこと。最終学年だし。大人になると一口で言って、即座になれるものではないけど、でも、大人になるというのはかつて考えていたよりもずっと具体的な目標であり、現実的な、目の前に迫っていて手を伸ばすことのできる目標だという気がする。大人とはなにかを理解するための材料がそろってきた。そうは言っても、こうした強気な自分はイメージの中で成功例を演じるだけで、次々訪れる現在に絶えず直面する現実の自分は視線のやり場に迷って人のいない場所に焦点を定めていたりする。でもなあ。
なにもせず互いに一切関与せず家に帰るだけの生活なら、過剰に視線を注いで嫌われる方がましだとほぼ迷いなく言える気がする。好きな人の話ではない。この生活で出会う誰に対しても。一方でどうやら自分のからだは嫌われるのを恐れているらしい。それははっきり自覚はできない。でも経験と反省を重ねた結果、そう仮説を立てるのが適当だという結論に今は至った。内観的心理状態と身体の反応に乖離のある人間だった。心の中は落ち着いているのに身体が緊張してふるえるとか。今もそうだ。そしていちばん深いところで、いちばん強い権限をもって拒否を下すのは身体のほうなのだから、強靭な身体をつくらなければならない。それは筋トレ的な意味でではなく、なんというかいわば精神的にタフな身体。
自分の感じていることを確りと周りに、相手に表明する。まずはそれだ。同時に、それさえできれば、でもある。高いハードルだけど、多分これより低いハードルは用意されていない。そしてそれを実現する機会を増やすためには、練習を、実践を増やしていくしかないだろう。

*1:高校〜浪人の時分は「すべきこと」として把握できることがらがそもそも少なかった――勉強するか、ネットするか、読書するか。だから暇にまかせて日記を書いた。日記を書く頻度が高かったから、今日や近頃を振り返る密度が高かったということだ。ゆっくり、日々を消化しつつ暮らしていた。と、言って言えないことはない。