「俺は駄目だ」

俺はだめだ。今日は帰ってから勉強を少しもしなかった。三時間ほどあったのに。ご飯・風呂の分を差し引いてもまあ二時間はあったのに。テレビをみてだらだらして、パソコンをつけたらずるずる引きずられてこの時間だ。俺は、だめな人間だ。
――さて、このタイプの思考や表明には問題がみえる。ひとつは自らをラベリングしていること。これは認知療法的には*1マイナスの効果をもたらす思考様式で、ようするに俺はダメだダメだと言っているとほんとにダメになるというしろもの。実際のところ午前中には学校に来て予習をやったし、授業にも部活にも出たし、達成できてるとこはできている。だからまあ 50% はできてるし、残り 50% はできてない。今日できたことはかたくなに「できた」のだし、できなかったことはこれから改善する。「ダメ」と一言に片付けてしまうのは乱暴に過ぎる。公正な評価を自らに下してゆくことが不当な depression に悩まされず気持ちよく生きる鍵なんだ、ってそんな感じのことが本に書いてた。
ところがダメなときはダメなんだ、と告白してしまいたいときもある。いろいろ分析するのとかしんどいし。言いたいことが言えないのはそれだけでストレスふるである。そもそも俺はだめだーとか思ってる時分は、いろいろと鈍ってて公正な判断なんて手間のかかることに手を出せないようになっている。「ダメだ」「ダメだと思っちゃダメだ」「でもダメだ」ぐるぐるである。公正に(≒科学的に、客観的に)判断するってのは、ある意味では不自然だし、また思考を制限されているような不自由感がつきまとうもののようだ。敏感なときはね。つまり、冷静に(非感情的に?)考えるには self-control が伴わなければならないわけで。それは聞こえてるほど容易で、思いのままなものではない。
だから、というのではないが、ダメだーと思ったときはダメだと書いてみてもいいのかもしれない。そこを取っ掛かりにして思考は進んでゆく。とりあえずは取っ掛かりを得なければ思考は始まりさえしないんだから。そして進み始めた思考がどのように展開するのかってのは、ふだんの心がけ次第、訓練次第ということになる。でもまあ、考え始めたならば、慣性がついてきたということだから、それまでよりは建設的にものごとを捉えることができるんではないだろうか。建設的ってのは、まあ、 self-control の効いた、という。こういう言い方に反発を覚える向きもありましょうが。少なくとも見晴らしは良くなってるはずだ。

*1:あー、 Feeling Good を途中までばらばら眺めてみたていどの「認知療法」です、ご注意を