簡単なことを難しく……

もっと腰を落ち着けてものを考えるようになりたい。つまり、もっと具体的な事実に即して。ついつい言葉の上だけで綱渡りしていっちゃうんで、それは無意味ということはないけれど、なんだろう。誤りやすい、というのはあるかもしれない。両輪ですね。

と。書いて考えるというのは僕にとって考えるほとんど唯一の方法で、というと明らかに言い過ぎなのだがでも確かに書いているときが「考えている」という自覚を最も強くもつときだ。思考の跡をつぎつぎ可視化しながら思考をつなぐことは、確かに考えの進みはよい。自分がなにをしているか分かっているからだ。
いや、わかっていない。むしろ、細かいところまで自覚的になりすぎて、細かい調整に熱中して、より大きな問題を見失う、あるいは後回し後回しになり、結局触れられずに終わる。
「言葉の上だけで綱渡り」というのは、その話とはすこし違うけど、書いて考えるという方法につきまとう危険だという点では同じカテゴリーの傘下にある。ここからは煮詰められてない考えだけど、言葉が言葉を触発してつぎつぎと文章が生成されていくというのは、つまり文法――言語の運用規則――に最低限のっとった記号列が生成されることに等しい。具体例の欠如した文章は、文章としては適格、それゆえ有意味なんだけども、……いや今これほとんどイメージでしゃべってるんですよ。心像と表象と観念と概念とコンセプションの違いとか、微妙ですけど、それはともかくこういうのが問題だと思う。ある概念に対する説明を求められたとき、僕がするのはイメージの描写なんです。たとえば僕は「形而上学的」という表現を好んで、しかも幾通りかの意味で用いますが、でもそこにはっきりした意味を想定してるわけじゃない。漠然とした、いやむしろイメージだけははっきりと、でも概念は漠然としたものしかもってない。つまり頭の中の閉じた作業でいろいろ判断してしまっている。言語運用の能力はあるんで(あるはず……)、それが確かならば間違ったことは言ってないはずなのですが、うーんなんだろうそれだけだと哲学が数学みたいになっちゃうというかあ。
いや、いや、哲学がどうあるべきかという点に話の核心はなくて、でもよりよい哲学のしかた、語り方というものがあるよという気はする。そしてそれが具体的な事実をまじえた、というやつである。
エヴィデンスがないと結局片手落ちだよ、という話かな結局。話の通じる人同士で話が通じるというのは、その話が正しいということの証拠になりえるが、しかし話の通じない人にその話の正しさを示すにはどうすればいいか、みたいな。「論理的に考えればこうでしょ」だけで押し通せるものではない、と思う。あるいは、哲学をより自然科学にすり寄せて扱いたいとか。理論は実践によってテストされねばならぬ。それで、どうせテストするなら、あーだこーだ考えて最後にテストするより、こまめにテストしていったほうが堅実だ、という。それは好みの問題か?
しかし「言葉の上だけで綱渡り」の結果出てくるのが、言語の運用規則にきちんと則った、それゆえ有意味な文章なのであれば、そこになんの不都合があるのかはよくわからない。正しいけど、別の次元でなんか足りない、ということになろうか。それとも、運用規則にのっとるのがところどころでコケてる、という話か。