「要は、勇気がないんでしょ?」

http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080316/1205641886
元記事 2008 年かあ。いまさら読みました。
記事中、回想の中で記事の作者が「そうだけど、もっと普通に知り合いたいっていうか」と言うのですが、なんかああ。これ。と思った。これ、「勇気がない」人たちにありがちな思考ではないでしょうか。
ひとことで言えば自然さだ。自然に出会い、自然に恋をして自然に結ばれる。恋でなくてもええんですが自分のしたいことが自然に見つかったり、争いが自然に収まってくれたり、聞きたい音楽をやってくれるバンドが自然に出てきたりしたら、それはとてもすばらしいことだ。
この場合、「自然に」の意味として「おのずから」というようなものが選択されている。呼ばなくても来てくれる。探さなくても出てきてくれる。作らなくてもどこかにある。それは自分から世界に介入しない姿勢だ。でも自分の欲求の形が、世界の現状とうまい具合フィットしてるかどうかは運次第。
「自然に」のもうひとつの意味として、ナチュラルさと言い換えうるものがある。あるいは無理なくというか。自分の学力より高い大学を目指すのは自然でない。週に 5 日もバイトを入れるのは自然でない(お金が必要なら別だけど)。この意味での「自然」は、 art に対する nature に基づいている。街路樹をプラスチックの木に差し替えることを拒む意識はここにある(やっぱあの本読まなきゃ)。われわれは世界に介入するにしても、できるだけ波風立てない形でみずからの欲求を実現したい。それは、できるだけ自然〔ものごとの自然な流れ〕を改変しない、ということを含む。
でもそれはドグマではないか。自然を破壊すべきでないなんて、そんな強固に信じてはいないくせに。他の人が手荒なマネをして世界に介入して見せたとて、それに怒りや戸惑いを覚えるわけでもないのに(戸惑いはちょっとあるかな)、俺はそれでもナチュラリストを名乗り続けるつもりなのか。
いや、ナチュラリストは、名乗られていないからこそ危険なのだった。そもそも「勇気がない」人はすべて潜伏的ナチュラリストであると信じる。「自然」を声高に支持したりはしないけれども、問い詰められた時に判断基準としてこぼす。
だめ。考えるのに粘り強さがないのは大きな損失だ。隣でツイッターなんか流してるからいけないのか。
結局、自然なほうがいい=波風立てたくない、というのは、リスクをしょいたくない、ということでしかないと思う。いや、リスクをしょいたくない、ということを明示的には意識していないかもしれない。ただ、リスクを背負いそうな段階になると、足がすくんで、後退してしまう。「勇気がない」人は自らの性質について自己欺瞞的である。「そうだよオレは勇気がないんだよだから一生ひとりで暮らすんだ」と開き直ることはしないのである。「リスクをしょいたくない」という明示的意識をもたないのは、自分に勇気がないことをまともに認識することを免れることで心の安静を図る単なる機能でしかないかもしれないのに。
というわけでリスクでもしょってみようと思います。敗北なのかそうでないのかよくわからん静かな敗北には飽きたよ。