多様性ふたたび

Google Chrome が案外に、いや案の定、むしろ期待に反して、便利で快適なので困っている。きょう目にした Togetter の記事ではないが、もはや自然自然と Chrome へと乗り換えてしまう見込みが濃厚で、困っている。今、検索エンジンも電子メールもウェブブラウザも、グーグル製のものを使っているのです。でも、なんでも一元化の流れは好ましくない。多様性を是とする僕としては。より優れたものが、古いものを駆逐する。それは当然であり、理にかなったことだ。しかし、 Google があらゆる分野をカバーするというのは厭だ。 Google だから、というのではない。分野は関係なくて、たとえばファミリーマートしかコンビニがなくなるのは厭だし、コカコーラしかコーラが選べないのは厭だし、音楽でモーツァルトしか選べないのは明らかに厭だ。これには主体的な選択の余地がないのが我慢ならぬ、という意識もある。でも、それよりむしろ、一部の最も優れた創作者、主体だけが、選ばれた者だけが舞台にあがれる、という状況が嫌いだ、というほうが素直な感じに近い。
こう書くとき、僕が理想の状況として念頭に置いているのは、細分化された分業体制であり、職人性だ。マイクロソフトは OS だけを作るべきだ。ウェブブラウザその他を作るべきではない。ロックミュージシャンはロックだけをやりなさい。気まぐれにエレクトロニカとかジャズのアルバムを作っちゃだめ。ヤマハはピアノだけで満足しておれ。シンセサイザーはローランド社あたりに任せろ。たぶん、そういうことになる。しかし、一読して気づかれるように、そんな状況はまたまた息苦しい。描かれた理想の状況をエクストリームに推し進めた話ではあるとはいえ、その違和感はそもそもの理想の置きかたにどこか誤りがあることを語ってはいないだろうか。
一つのものだけを作るべきで、他を作ってはならない……とは言わない。だが、あらゆる分野において一つの主体がシェアを独占することには反対したい。一人の天才がすべてを仕切る世界を、僕は恐れる。でもそれはなぜか。端的に言えば、「つまらないから」になる。ではなぜつまらないのか。ひとつの主体だけで作るからだ。ひとつの主体だけが作るものは、どこか画一化されている。抽象的な人格が被造物のそこここに秘められていて、世界は特定のひとつの「その人」性に染め上げられてしまう。
もっと具体的にいこう。
確かにグーグル製のもろもろは便利だ。悔しいが Firefox より快適だ。何が悔しいのかといえば、 Mozilla はブラウザとメールソフトしか提供してないんだから、「せっかくだから」そっちをとってやるべきではないのか、ということだ。(余談ながら、この点にかんして言えばブラウザしか提供してない Opera を最優先すべきなのだが……、 amazonなか見!検索が使えないので……)。ええと、つまり、こうしてグーグルが便利なものばかり作るので、 Mozilla 社とか Opera 社のものを使う機会を逃してるわけですよ。いや、そりゃ MozillaOpera がよりよいものを作ろうと努力すればいいんじゃん、という話かもしれない。それもあるかもしれない、けど、……
ブラウザも作品と見てるんですよね。一種、美的鑑賞の対象として。俺定義だと、アート=人間によって作られたもの一般、なので、ソフトウェアハードウェアのデザインはもちろん、発話とかジェスチャーも「アート」であって美的鑑賞の対象になるのです。そして、僕はみずからを取り巻く美的環境がよりよく、そして、あいまいながら適切にも思える言葉を使えば“豊か”になることを望んでいる。そしてそして、その豊かさとやらには多様性が一役買っているように見えるのです。デカルトは(ここで突然デカルトですが)「みんなで作ったものより一人が計画して統一したもののほうがいい」*1とか言ってますが、まあ個々の作品についてはいいとしても、一人が世界のすみずみまでをデザインする、というのはやっぱり惹かれない。もしかしたら美意識というより正義の話なのかもしれない。こっから先はまた考えることにしよう。
とりあえず、文献にリンク。
方法序説 (岩波文庫)
僕の持ってるのは古いやつで、訳者が違う。
現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)
最近美的なんちゃらと言いだしてるのはこの本に感化されてです。

*1:正確には(といっても翻訳なのだが)、……「一技術者が図をひき、これを完成させた建物は、別の目的のために出来ていた古い外壁などを利用し、大勢が模様がえに苦心したものよりは、おしなべて一そう美しく一そう善く整っているようなものである。」云々。『方法序説』落合太郎訳、第二部の冒頭より。