日本語だと「ブログナイズ」のほうが多いんですがねどうなんでしょうね

「売らんかな」って何ですかね。「売らん」は「売ろう」の意だとして、「かな」は? 詠嘆? それにしても不自然な日本語だ。私です。日記がはじまります。オールドスタイルの日記です。ブロガイズされる前の日記の形態の日記です、ね。とりあえずこう宣言しないことにはこの形式の(そうです既にこれは形式です)日記をはじめることができなくなってしまった昨今のアマチュア非営利文章書きの状況ですけども、日記。さて書くことがありません。書くことがないときに何を書くだろうか。「あのころ」を思い起こすに、たぶん今だったら書くに値しないっつって乃至あんまし気が乗んねぇっつって書かなかったであろうことでも書いてたはずです。ようするに文章を書くんであれば“なんでもよかった”のです。つらつら文章を連ねてるうちに、真に言いたかったことがぽろりと出てくれば設け問(もうけもん)です。愉快な誤変換なので残しときますね。お菓子食べます。いやはやどうしても作為的になってしまうな。いや。こっちだけの話かもしれないけど。
サラダせんべいが超床にこぼれてたー。副詞 very の意味での「超」を「ちょう」と平仮名表記するのは俺はいまだに違和感ありますよ。素直に「超」と書きたくなかったらいっそ使うなよと思いますよ。もともとオリジナリィに very の意味での「超」を使いだした人たちは、たぶん「ちょう」とは書かなかっただろうから。「チョー」だったら許す。しかしそれは何故か。「チョー」だって作為的ではないか。片仮名にしたぶん引用風じゃーないか。チョーすげえ。超すげえ。ちょうすげえ。というよりも表記としてなんか気持ち悪い、なんて話なのかもしれません。ウネってる感じが。長音を「ー」ではなく「う」で置いてるのも始末が悪い。カタカナでも「チョウすげえ」などと書いたら、これも、やっぱり、駄目です。だめです。その理由を考えてみるに、ひとつは、「ちょう」と書いたとき、これを cho- ではなく chou と感じられることです。自然に唇が前に突き出されてしまう。咄嗟に cho- と読めないのです。以上のような・のような事情で僕にとっては「ちょう」って奴は適切な表記には思えません。日常語で超超いってる人たちを下に見つつ利用する、のような姿勢もなんか見える気がします。妄想ぎみでしょうかね。もうちょい詳細に分析しないとわからないな。