まとまりのない自分用メモ

哲学史の意義
哲学史は一個の哲学か。確かに、ひとつの哲学の発展として哲学史を記述することはできる。しかし事態は、ひとつの哲学と同じように、複雑である。いったい哲学は時間軸に沿って、ほんとうに発展しているといえるのか。デカルトなんか読んでみるとそこでは神の存在証明がなされているが、これは現在においても完全に克服されたとはいえない。大昔に出された論点で、有効な反駁がなされていないものはたくさんある。いや、或る意味ではどんな論点も完全に説きつくされたとは言えない。哲学は、過去の哲学のある面を無視することを伴って前進する。いや、前に進んでいるはずが実は円環構造になっていた、なんてこともある。
このように哲学が前進しているか、いないかを決めることはきわめて難しい。というかたぶん決められない。しかし少なくとも、哲学の進歩ということを問題にできるのは、歴史という観点を導入することによって、言いかえれば時間軸を含めてものごとを考えることによって、である。

歴史学と哲学
歴史学は基礎研究なのか。歴史は、ものを見る perspective に時間軸を導入し、世界に新たな奥行きをもたらす。歴史は、ものを見る見方のひとつの視点であって、ひとつの研究領域ではない。政治史、文化史、経済史などということになると、それは政治学科であったり英文学科であったり経済学科であったりにおけるテーマになる。のか。だとすると史学科ではなにを勉強し研究するのか。歴史哲学か。それだけではあるまい。

哲学に引きつけて考えてみる。哲学科では政治哲学とか法哲学といったものも勉強する(できる)。だけど政治学科で政治哲学とか、法学科で法哲学とか、そういう対応も他方で、ある。だが哲学科でしか勉強できないものもある。形而上学とか、認識論とか、である。いや物理学は一種の形而上学であり、生理学や心理学は一種の認識論でありうる*1。だがカントの著作を読んだりプラトンの著作を原典で読んだりするのは哲学科でしかしないだろう。それにはなんの意味があるのか。どうやら哲学科で目指しているのは、知識をつけるというより自分で考える、実技重視の訓練をすることらしいのである。哲学書を読むのがそれにどれほど寄与するのかはいまいち、わからないが*2

歴史の見方には、唯物史観とか、アナール派とかがあるらしい。だがもっぱら唯物史観の検証やアナール派の研究をやってるわけではあるまい。これは、哲学科で弁証法の研究とかイデア論の検討をいつもやってるわけではないのと対応する。のか。

あるいはクリティカル・シンキングの観点から。歴史を組み立てる、歴史を読む、歴史を考えることは、「なにが事実(個々の事実/それらの関係)か」という問いと直接に結びつく。歴史を学ぶものは、向かい合う対象に常に批判的であらざるを得ない。哲学を学ぶときは、哲学書を読むことは、「この論証は適切か/妥当か/正しいか」という問いと不可分である。また同時に、歴史も哲学も「世界を読み換える」ことである。

なんで俺は哲学と史学の共通点を探してるんだ。

歴史は、「どうしてこうなった」型の問いと「あれはどうだったか」型の問いがある。言いかえれば、ある物事の変遷への問いと、過去におけるある物事の実態への問いがある。哲学はどっちもないな。哲学はつまり、理屈に対して理屈をこねる、この応酬である。じつは事実そのものは問題にならない。事実という概念はおおいに問題になるが。あと、歴史は事実が最大のエヴィデンスになるが、哲学はそうはならない。ならないか? むしろ、その「事実」に対して歴史は疑問を突き付けるのではないか。ああでもそれもまた別の事実――文献とかのメタレベルの事実――によって突き付ける、のだが。哲学も、いや、事実がなければはじまらないではないか。「ここに本がある」と言えずになんの哲学がはじまるというのか。「ここに本がある」という言明に「ほんとうに本はあるのか」と返すことから哲学ははじまる。そういうはじまりかたもある。そして哲学はたぶんすべてこれと同じようなはじまりかたをする。でも、その本が紙でできているか、電子書籍か、とか、いつ出版されたか、ということは哲学には関係ない。

*1:いや学科の分け方は必ずしもMECEであるべきではないということか

*2:と、思ったけど、歴史的に定評ある哲学書のあの濃密さは対話相手として丁度いい、ということかもしれない