夜の過ごし方

ちわっさ。(なんか最近いってみたかった)
まだ夏休み続いてます。アホみたいに続いてる。長すぎる。誰も悪くない。誰も悪くない。しかしとても長い長い夏休みだ。長期休暇は人に会わない。休み中は活動をお休みしちゃうような部活にしか入ってないので学校行ってもそんなに知り合いがいるわけじゃないし。いや案外いるんだけどこれが。案外いるけど実際そんなに学校まで行くわけでもないので結局人に会わない夏休みは夜になって人恋しくなる。他人と話すってのは運動や勉強や食事と同じように人間の健康を維持するためのたいせつな要素で、それが欠乏すると夜になって人恋しくなるなどの不調をきたすことになる。たんに人恋しいなどなどの感覚が生起するだけならまあいいんだけど、その感覚はなんらかの手続きを経てその感覚自身を取り除こうとする動機づけをともなう。感覚が生じるだけじゃなくて、その感覚をどうにかして取り除かなければならない気になってくる。まあ考えてみれば感覚一般は(医学的な意味――感覚は身体からのシグナル――でとらえれば)、どんな感覚だって動機付けを伴うものだとは思うが。いやあ、医学、ぜんぜん知らんけど。専門でやってる人ごめんなさい。
そこでそうなってるものはしょうがないので今宵も今宵を切り抜けるために、つまり快適に過ごすためにさまざまの手を尽くしてみる、実際はだらだらと 2, 3 の処方を思いつくままに試してみるのだが、しかしどうしても人恋しさというのは避けるべき状況なんだろうか。こうして文章にして多少突き放した形でながめていると、それが疑問符つきであらわれてくる。人恋しいからといって、その人恋しさが自分の身を脅かしたりするわけじゃないわけですよ。いわば。べつに辛いというほどの強烈な感覚を覚えたりするわけじゃあないわけです。ただ、それを取り除かねばならぬ、この状況を一刻も早く脱しなければならぬ、そういう動機付けが仕方もなく僕を駆り立てる。いや、より正確には、動機付けはもっぱら人恋しさの感覚そのものに向かっているわけではない、むしろそれは副次的な位置にある。動機付けが向かうのは、むしろ自分のこの生活のありよう一般にである。人恋しさに駆り立てられて僕がにらみつけるのは、僕のふだんの生活のしかたである。つまり、もっと人と話す生活をしろよ、すればよかった、サイアクだ、そういう後悔が動機付けの中身である。後悔は過去を変えようとする意志だ。意志は過去にだけでなくもちろん未来にも向き、僕は後悔のなかでよりより明日を願う。後悔のなかで、あるかもしれないよりよい明日を生きようとする。でも今日は寝るしかないね。せいぜい本を読むしかないね。いまは午前 0 時だ。
でここから教訓とか具体的な過ごし方についてとか書こうとしてたんだが歯を磨いていたら存外な時間が過ぎてしまって気分がかわってしまったのでそれは省略する。