インターネットが性格形成に与える影響について

いや、きちんと心理学的な意味から性格形成といっていいものかはわからんけども。
まえに (2011.8.25) 原書で挙げた『思いやりの人間関係スキル』という本:
思いやりの人間関係スキル―一人でできるトレーニング
これをちょっとした課題解決のために読んでいて、――と書いたけれども、実際はもちろん「ちょっとした課題」だけを視野に入れているのではない――これはとてもよい本なんだけども、ひとつの問題として、自分の内気 (shyness) が一体どっからきたものかうまく把握できんでいた。著者のネルソン=ジョーンズ氏はそういうものに影響を与える要因として家族とかジェンダーとか文化(日本だったら儒教的な道徳みたなやつ)を挙げているんだけども、自分はそれらのどれにもしっくりあてはまる気がしなくて、じゃあ何だろう。と心に引っかかっていたのだった。
特定の要因にはよらず、単に小さい頃からコミュニケーションスキルを培うような環境になかったから、そのままずるずるとここまできて防衛反応としての shyness を身につけてしまったのだ、という説明もあって、これは確かに納得する。幼稚園ごろからすでに人間関係において受動的だったように思う。自分でなんとかしなくても周囲でなんとかしてくれる環境が(詳しくは描写しないが)いちおう整っていたといえる。小学校以降自分から友達に遊びに誘ったことがない、あったとしても片手で数えられるくらいだろう。コミュニケーションの能力が決定的に落ち込んだのは小学校 3 年のときだが、そのときに特別な事件があったとは思えない。クラス替えで従来なんとかしてくれてた人たちが周囲からいなくなってしまったので殻にこもるしかないと思ったのだろうか。周囲がみんな「他人」になった。
でまあそれはそれなんだけどもインターネットの存在もわたくしの shyness をつくる一端であったと最近きづいた。俺はわりと頭がいいとか悪いという属性帰属に敏感、というかそこに重めに価値を置いてるようである。いや、正直いって強い自覚があるわけではないんだけど、いろいろ状況分析とかしていくとそのへんに行きあたる。何かたとえば自分の専門にさわるようなことを質問されてうまく答えられなかった場合、そのことは自分の頭の大きな部分を占めることになる。これ、知識や認識の量・豊かさというよりは、説明に長けてるとか理路整然と話ができるとかそういう観点からビビっときてるのかもしれないけど、まあそこも含めての頭のよさだよねというか、そのくらいのきめの粗さでしかまだ捉えられていない。だからこれから書くことも仮説傾向強めだ。
ようは、インターネットには頭のいい人がたくさんいるわけです。さいきんはソーシャルネットワークみたなものが流行って全体的な眺めとしては変わった感じがあるけど、僕は 10 年くらい前からインターネットを見ているので、そのころはもっと頭のいい人ばかりだった気がする。そもそも HTML が作れる(まあホームページビルダーとかあったけど)とかでないと自分の発信スペースを持てなかった時代だし。そいで実際の割合としてもそうであったし、またインターネットの特色として付き合う人をかなり自由に選択できるというのがあった。見たくないものは見なければいい。見たいものを選んで見よう。それで僕の場合「見たいもの」はけっきょく頭のいい人たちの発言だった。あるサイトの掲示板にはそういう人たちが集まって言葉を書いていって、そういうのを楽しみに読んでいる時期があった(このときは頭がいいというよりは人格ができてるという感じだったが)。それからしばらくしてテキストサイトを読む時期に移行するんだけどもそれも似たようなことだよなあと思う。テキストサイトってすごく頭のいい人が多かったから(い、印象)。でまあそんな具合で自らの巡回先を整備していった結果、俺の周囲には頭のいい人ばかり、頭のいいことがあたりまえな世界に住むことになった。
いまさらですが、ここで「頭がいい」とは何か? という問いには踏み込みません。だってめんどくさいし。なんとなくわかるでしょ。僕が思っている「頭がいい」とあなたが思う「頭がいい」はだいたい同じはずです。そしてあなたの「頭がいい」で理解して差し支えない話だと思いますこれは。
ぼくはモニターの前で時間を過ごすことの多かった人間ですから、やはりインターネットの影響は実質的に大きかったと結論してよいとおもうのです。頭のいいことがあたりまえな世界に住んだわたしは、頭がわるいことを恥じるようになった。いや実際はそこまであからさまな形ではないけど、間違ったことを言うのを恐れたし、それって教室で発言しづらいのと同じ構造ですよね。発言するような人はだいたい正しいことを言ってるように見える。下手なこと言ったら、オレだけがバカという状況になりかねない。ようは「間違った/頭の悪い発言をするのは恥ずかしい/おかしい」という価値観がそこで埋め込まれちゃったんではないか。と今は考えてる。近頃はだいぶそこからも抜け出せてきてるかなと思うけど。
ここまで「頭がいい」という価値によって話をしてきましたが、「努力してる」なんかについても似たことが言えるんだろうと思います*1。インターネットによって私たちは、価値を実現してる人を探すのがだいぶ容易になりました。探すっていうか目に入りやすくなった。割合的にはアレだけど「すごい人」ってのは近年より多く目に付くようになったと思う。ツイッターで。哲学にめっちゃ詳しい人とかいますからね。恐ろしいですね。世界は組みかえられてゆきますね(何が)。

*1:このことについて昔ちょろっと触れた気がするのだが出てこない