デキる哲学者は図書館に通う

大学の専攻として哲学を選んだ理由はまあ何個かあるんだけど、そのひとつとして「いろいろなものを用意しなくていい」のいうのがある、のを思い出した。いろいろなものを用意しなくていいとは何か。いろんな資料とか、実験器具とか、あと他人の意見とか、そういうものの力を借りなくても完結した哲学を展開することができる。そんな意味だ。社会科学には具体的なデータが不可欠だ。文学はテキストを読まなきゃはじまらない。自然科学には実験がついて離れない。ああ数学は別ですね。ここで言っているような“身軽さ”に気付いたのは、実際は数学についてのほうが先だった。初めて読んだ哲学関係の本は高校二年のときの『ソクラテスの弁明』だから、まあそもそも今とはイメージがぜんぜん違う。当時はなんか文学の一種みたいな捉え方をしていたかもしれない。そのへんよく覚えていない。ともかく数学とか哲学は、この頭一つ(まぁあと紙と鉛筆くらい)あれば本に書いてあることを検証してみることもできるし、場合によっては反論することさえできる。哲学のそうした面が、読書量や行動で勝負できる蓄積のない僕には好都合だった。
ところでここしばらくは、図書館というものに関心がある。図書館を使いこなしたい。資料を読みさばけるようになりたい。そんな欲求がたまに意識をかすめる。まあそういう時期に来たのだろう、と思う。哲学においても読書や経験の果たす役割の大きさに、だんだん気づくようになった。まあ大学に入ってアカデミズムに毒されたと言わば言えだが、いや、というか結局個人がいっぺんに見渡すことのできる範囲なんて高がしれたもんですよ。知識の蓄積があったほうがいいし、それがないと実際問題だめだ、と最近は思う。“知識”をむしろ重視するような知の捉えかたをようやく許容できるようになったんだろう。
それから、コミュニケーションがようやく少しずつできるようになってきたというか、あるていど苦でなくなってきたというか、そういう事情もある。大学一年くらいまでの僕は一から十までを独力で DO IT YOURSELF するのがなんかモットーみたいになっていて、それは多少は意味のあることではあったけど、十中八九は単に人に相談したりとか教えを請うようなことに抵抗があったからなのだった。うまくいくか不安だったし、「人にアドバイスを求めることは自らの判断で行動しないということだ」みたいな歪んだ信念もあった。これは宗教に対する抵抗感にも似ていた。キリスト教であればキリスト教的な思考に自らが染まるのを恐れていたのだ。今はむしろ逆に考えている。染まるのが恐ろしいのはそこで「自分」とやらが消えてしまうからなのだが、じつは「自分」とはいろいろなものに染まったすえに輪郭を現してくるようなものではないか。結局のところ外部と干渉せずにすませる道はなんか実り小さいなあと思うことのほうが多かったので考えのほうも少しずつ変わってきました。という話。寝たいので強引にまとめました。