現状否定的欲望

「否定的な形で述べられる欲望は真性の欲望ではない」と Twitter に書いた。この命題は問題含みであるとは思う。だが、だいたいにおいて間違っていないとも同時に思っている。
とりあえずこの命題の言わんとするところについて。まず「真正の」*1というのは、ここに倫理的な含みを持たせている。つまり、「ありうべき」というような言い換えが可能である。真正の欲望こそ欲望すべき欲望である(わかりづらい表現だが、欲望を対象としたメタ欲望を言っているのではない。まあ言い換えれば、欲望すべき欲望というか、それを生きるべき欲望というか。ぶっちゃけた言いかたをすれば、“正しい”欲望というか)。
では否定的な形で述べられる欲望とは、具体的にはどういうものか。ようは「〜〜したくない」という形式に当てはまればいいので、たとえば「学校に行きたくない」とか、「シュウカツしたくない」とか、あと微妙な例だと「よく考えずに言い返しちゃうのやめたい」とか。
これらが欲望の概念の外延?に入ってるかどうかを問題にしたいのではなく、むしろこうした欲望によって生活を導いていくのはよい結果を生まないのではないか、と考えている。言語分析よりは倫理的、倫理的というよりビジネス書的。
否定的欲望は、つねに現状否定をともなう。現状に対する拒否。それも、開かれた拒否である。肯定的欲望もたしかに現状否定なしでは成立しない。欲望が、現状ならざる事態を本質的に求めるはたらきであるかぎり、そこには一種の現状否定が入り込まざるを得ない。だが、肯定的欲望にともなう現状否定は、ヴィジョンが固まっている。現状否定してその先どこへ行こうとしているかまで決まっている。否定的欲望は、実質的に否定しかしていない。いっぱんに、 A という命題の否定 ¬A は、 A ならざる可能性すべてを含むので、多くの場合かなり広い領域を指すことになる(全体が無限であり、かつ A の領域が有限なら、 ¬A の領域は無限だ)。この現状は厭だ、でも、どの現状だったらいいのかは知らない、と。
そこに問題があると言いたいのだろう。しかしそれがどういう問題なのかわからない。否定的欲望は場当たり的、非計画的だ。しかしそこに問題があると言いたいわけではない。実用的には計画的に動けたほうがいいのだろうが、凡人にはなかなかむずかしい、欲望の仕方を変えるだけではきかない気がする。むしろここで spot を当てたいのは、欲望の仕方の違いに起因する心理的効果である。
しかし眠りたい。なんとなく肩から上がだるい。ので手短にまとめる。ここまで引っ張ってきてなんだがうまく書けそうにない。ようは、「〜〜したくない」とつぶやきながら生きるより、「〜〜したい」という意識が浮かんでくるほうが健康にいいでしょ、みたいな話がしたいわけだ。ポジティヴ思考だ。うっひょー。でもそれがある種の人たちにとっては居心地の悪いものだということは想像がつくし、自分自身ポジティヴを推進する人には一般的にいってなじめないなあと思う。微妙な位置関係だ。
しかし、少なくとも、「自分は何がしたいのか」と問いかけながら生きるのは必要とさえいえることだと思う。べつに実際に自問自答するわけではないが(してもいいが)、自らの欲望の動向に敏感であること。
ということは、否定的欲望には受動的な態度が色濃く出ているということになろうか。否定的欲望が生じるのは、周囲の環境に刺激されて生じる。それは生物的な条件反射のようなものである。つまり否定的欲望にはあまり個性は出ないと言ってもいい。そこにくると肯定的欲望には自律性があって、なんかどっから湧いたかわからないようなところがあって、でもそれがその実自分の個性みたいなものではあったりして、云々。
結局なんなんだ、心理的に快楽を増やすとかいう話じゃなくて自分らしい生を生きよみたいな自分探しみたいな話なのだろうか。そういえば、否定的欲望だって快楽を増す。現状否定は一種の快楽をともなう。現状に不満を垂らすことは、かなりの程度受動的だが、現状を積極的に変えようとする意志をともなわないかぎりで責任を引き受けることもないので、すごく安全な立場である。世界が一方的に悪くて、私は正当にもその悪を指摘しているだけ、そんな構図だ。まあそればかりだとつまらないよね、という気分は確かにある。

*1:これ、もとの発言は漢字間違ってるね……