まとめを兼ねた再論

相手のほうが自分より辛いとどうしてわかるのか
わたしたちは言語を介して他者を理解しようとする。そのさい、たとえば「痛い」という発話は、受け取り手である自分が「痛い」と言うときの感じに引き合わせて理解されている部分は確実にある。「ものすごく痛い」という表現は、それを使う人によってその痛みの程度に幅があるかもしれない。僕が「すこし痛い」と言うところの痛みを「すごく痛い」と言う人がいたりしてもおかしくないわけである――ただし、痛みの程度というのが客観的に測定可能だとして。
言語を介して他者を理解するかぎりで、相手のほうが自分より辛いというのは何を意味するか。相手の辛いと自分の辛いが同じものかどうかは疑わしい、むしろ私によって理解された「相手の辛い」は、結局のところ「自分の辛い」でできているものでしかない。相手の辛い=自分の辛いなんだから、相手が自分より辛いと理解することなど不可能だと言いたくなる。だがこの推論は混乱している。さきほどの等号は実は成り立たなくて、ただ相手の辛いは自分の辛いに立脚して理解されるしかないという話であった。
結局、辛さの程度は、言語や身振りを含めた記号の使われ方から引き出すしかない。具体的には、「耐え難い痛み」と表現したり、のたうち回ったりしてたら、痛みの程度は高いと考えられる。そうした相手を見るとき、朝から軽い頭痛がある私の頭の痛みはそれに比べればさほどのものでもないな、と思うかもしれない。だが、そもそも痛みが比較可能だというのに問題があると思えてならない。頭痛とすりむいた膝の痛みと、どちらが激しい痛みなのか言えるのだろうか。両者はそもそも比較不可能なのだと言いたくならないだろうか。というわけでベルクソン*1を読みたいです、という日記を当初書くつもりだった。
言語の次元とは別に感覚的な次元における「痛み」なるなにか実在を置いて話を進めるのは実りない気がする。なにか客観的な痛みが言語というコードを通して解釈され、いくぶん歪められたしかし同一性を保った「客観的な痛み」が私に理解される、みたいなモデル。このモデルはいろいろあやしいところがあって、他者に痛みという実在を認めるべきかってのでまず議論になるし、それがどのようにコード化されるのがいまいちクリアでないし、コードが読み解かれる仕方も説明しなくちゃならんし、そうして読み解かれた痛みがもともとの痛みと同じ種類であり・コード化と脱コード化の過程で痛みになんらかの変化が生じたことならびに元の痛みと読み取られた痛みがどのようにして比較されうるのかがよくわからない。
こうしたモデルを使わずに「相手のほうが辛い」という認識を説明することはできる気はして、それが元の記事の最後のほうにぐちゃぐちゃ書いたやつである。とはいえぐちゃぐちゃなので後日またまとめる必要がある。


尊敬の難しさ
上のが長くなってしまったので、こっちは簡単に済ませたい。僕の洞察は一点で、「尊敬することはその尊敬する人のある部分を自分のものにしようとすることを含む」ということであった。
尊敬相手のなにごとも自分の人格とは関係ないとするのなら、それはもはや尊敬ではないように思われる。「ジョン・レノンのようになりたいとは思わないけどジョンレノンを尊敬してるよ」というとき、「ジョン・レノンのようになりたいとは思わない」というのを、たとえば平和活動をする気はない、という限定された意味でとれば問題はないが、ジョン・レノンに見習う点はひとつもないと言っているのであればこれは奇妙な発言になる。その場合は尊敬ではなく、たんにジョンのよい部分を認めて appreciate いるというだけである。
また、尊敬からは生活において目指す方向をがっつり縛りつけて固定することが帰結する。なぜなら尊敬は尊敬相手の人格をある意味かけた表明で、それを簡単に裏切ることはできないからである。尊敬する相手をころころ変える人がいたら、それは軽薄のそしりを免れないだろう。(自分も含め、多くの人はやはり軽薄なのかもしれないが)(そこに一発、気合を入れるというのも、尊敬の作用ではあるかもしれない)

*1:本来的なあり方からすれば、すべては質的違いでしかなく、量的に比較可能だというのはまやかしだみたいなことを言っていた。『時間と自由』。