きみが欲しい

部屋を整理してたら、二週間くらい前に書いたメモが出てきた。せっかくなので今年のうちに片付けちゃおうということで、それについて書いてみる。
person にしか付与されない価値があるのだろうか。狭い意味での「物」には付与されず、「人」だけが、人格をもった人間だけがもちうる価値があるのか。そうしたものがあるとすれば、人間が人間を欲望するということを、ふつうの?欲望とは区別された現象として確立できる。
でも、ちょっと反省してみると、人間に対してしか生じえない種類の欲望など、ないんじゃないか?という気がしてくる。たぶんこれは人によります。ただ少なくとも僕はそう。価値は、いつでも「もの」的なそれでしかない。これはただの実感です。
しかし、だとすればこれは一大事である。なぜならそれは俺がおよそ恋というものをしないのでは?という疑惑につながるからだ。物に対する欲望と人に対する欲望を、根源的なレヴェルで区別できないとすれば、まあ俺が I need you と言ってもそれは「アラビア語の入門書が欲しい」などと言うのと同じ意味合いで言ってることになる。
うーん。それは必ずしも避けるべき帰結ではないのかもしれない。かくあることはかくあるまま認めるしかない、というのが自分の今んとこのスタンスだし、物への愛と人への愛が根源的に同種のものだということが判明したとしても、まだ話をする余地はある、ように思える。たかが根源的一致である。
しかしどうでしょうか。人を欲するといっても、それが具体的にはどういうゴールを目指す欲望なのかがまだ取り上げられていない。平均的な見方からしてそれは、たとえば好きな相手をとっ捕まえて家に連れて来て飼いたい、というような欲望ではないように思われる。べつにそれが犯罪だからではない。そこでは相手の人間性が損なわれているというか、その人がその人であるという性質、同一性、自存性、といったものが変化を来してしまっている、と考えられる。つまりあの娘を捕獲して檻に入れてしまった日には、あの娘はもはやあの娘でなくなってるわけである。
人に対する欲望は物質的な所有への欲ではないのだろうか。いや、そこまで進むには早い。先の段落で述べたのは、蛙をつかまえて袋に入れて帰って開けてみたら死んでた、みたいな例だ。生きたまま蛙を家に持ち帰れるのなら話は別である。でも人間に対しては、それは不可能に近く難しい。飼われたその人は僕の思っていたその人ではない。(まあ、飼われたカエルが不満を感じていても、人間はそれに気付かないだけかもしれませんが)
停滞したので今日はここまで。