どーなる

もっとクソみたいな日記が書けたい。浪人してた頃くらいまでの、ひたすら己の現状を憂えては決まり切った「解決策」を唱えるばかりの、特にお役立ち情報とか載ってなくてもいい日記が書きたい。いや、そういうのも書けたほうがいい。そういう日記の掲載が許される場であるほうがいい。今のひとりよがり哲学ブログみたいな楡男よりももっといい日記空間があるはずさ。
自分はなににもなれない気がしてきた。それはすべて己の中途半端さのせいさ。不徹底のせいだ。小説を読んでも中途半端、勉強をしても中途半端、運動も中途半端だし語学も中途半端だし作文も惰性で手に入る以上のものがない。「それ以上」の努力がない。他者をふくめた「わたしたち」の次元でもって自分を測るというものさしがない。いや、ないわけではないが、これら活動はすべて「自分のため」に最終のところやってるのだ、という意識が、他者との比較をサマツなものに思わせてしまっているのかもしれない。しかし二年くらい遡ればそこには劣等感とわずかの優越感のはざまに存立する自分があって、じゃあその頃とはなにが変わったのかと考える。
自分の専門である哲学については、まあそれなりに認識が深まったんだろうという自負はある。でもそんなに読書とかしてないし上を見れば上はいくらでもいる。そこまで上を見なくとも読書量で俺を上回っているひとはやはりいくらのいくらでもいるように思えるし、結局のところ意欲は読書量に現れるものだとも思う。俺はいわゆる「読書が好き」なタイプではない。本を自発的に読むようになったのは高校一年のときで、高校の休み時間とか親しい友人もおらんのでひたすらヒマで、じゃあその時間をいくらかでも有意義に過ごすにはどうすればよいか、ってブックオフでふと『人間失格』と『坊っちゃん』をお求めになられたのだった。そういえば高校で『人間失格』読んでて当時好きだった子に「面白い?」と聞かれたんだけど「いやぁ、まだ一回しか読んでないから」とかいう取り付く島ないかんじの返答をしてウワァオってなった思い出を思い出したけどそれを今書きたいのではない。
それで。自分はべつに研究者になりたいという気はべつにしないのだ、と思うことは何度かあって、研究することにさほどの喜びが予想されないというか、まあ大したことしてないのでまだわかりませんが、だからわりと大学に足繁く通っているようなスタンスはそれがあるべき姿というよりはある種のオルタナティヴとして機能していて、もっと放浪とか?したほうが自分のためになるのではないかと思うこともある。あるけど。
俺はアウトサイダーとして生きるしかないんじゃないかと思うようなときもある。アウトサイダーというのはいまいちな把握で、ようは自分には人間としていやむしろ社会人として決定的に欠落している部分があるんじゃないかという思いを年々強めていて、いやそれは社会に出てから一定程度矯正されるものなのかもしれないけども、でも周囲の同世代と比べてもちょっとヤバイんじゃないの、とは思うので、やっぱヤバイんじゃないのかと思う。
思ったがこれって人に向かって話すべきことだよな。高校〜浪人の時分はそういう人もいなかったので特定された不特定少数に向けて言葉を吐いていたが、いまは話す相手もいるので、だが、まあ言いづらいことは言いづらいのだ。こういうのも人間としてどうかと思う一例だが、うーん、そういうのは近年増えてるタイプの人間なのかもしれん。とすれば俺はその傾向に抗う理由があるが。
だいぶ方向を見失ってまいりましたね。これがモノローグの限界でしょうか。
さきほど自分が人間的に欠落してるてなことを言いました。コミュニケーションに関して根本のところで勘違いをしているかのような感じがある。プラクティスが足りないというだけなのか? でも今からどうするってな。あらゆるものごとは漸進的にしか進まないし、今の自分がどんな次の自分になれるかってレベルでしか動けないとは思う。じゃあどうするのか。とりあえず、ふつうにシュウカツ、となる。