抽象語り

「だけ」というのが嫌いだ。ある事実を指摘する文の最後につく「だけ」。
きっかけ:
http://twitter.com/#!/podhmo/status/154404757853843457:twitter
http://twitter.com/#!/podhmo/status/154405205763563520:twitter
「だけ」ではある。僕が抽象的な言辞を振り回すのは、第一にそれがクセになっているからだ。抽象的に世界をとらえ、その結果を現実に適用して試してみる。トップダウン式。この方式が効率的かどうか、問題ないかどうかは別として、そういうやり方で生きている。上の発言で言われていることにはほぼ 100% 同意する。
たしかにそれ「だけ」なんだよ。抽象的な把握が先に来るか、具体的な把握から登っていくかは個人のクセの違いであって、だとしたら抽象的な把握をまずする人が直ちにより高きものだということには当然ならない。抽象的な把握によって結果的には真理を一発で掴んでるかもしれないけど、評価されるのはそこではない。それだけだったら当てずっぽうでマーク式の試験が通って「実力だ」と言ってるようなものだ。もちろん、僕は完全に当てずっぽうでやってるつもりはないけど、でも拠って立つグラウンドがないという点では、まあ、「だいたいこのへん」と見定めて網を投げてる感じに近い。あ、比喩だ。
端的にいって、抽象から入るやり方は不確かなんですよ。具体例を集めてそっから抽象するのが正しいやり方であって、僕なんかのやってるようなことはそういう学究的な態度というよりは、ばくち打ちとか職人のそれに近い。いやそう言うとばくち打ちや職人のかたがたに失礼ですが――彼らだってそれなりの理論をもってるんだろうし――、ともかく方法論に基づかないところで探求を行ってることにはなると思う。方法論に基づかないということは、出てきた結果を保証してくれるものがないということで、だからまあ、こう書いてると自分のやり方はいいことなしに見えてくるんだけど……。(念のためつけ加えておけば、事実をまったく観察してないわけじゃないですよ。当たり前ですが。ただ、抽象的な命題を書きだしてくる際にそれら個々の事実をひとつひとつ点検したりはしないということです――そしてそこに大きな危険があることも、うすうす承知しています)
だいぶ話がそれてしまった。僕が「だけ」を嫌いなのは、「だけ」をつけられた事実がなにか矮小化される気がして嫌いなのだ。それを取り上げたのだから、そのことには取り上げられるだけの重要性があったのではないか。いや、重要性がないのにやたら取り上げられてるから、「いや、これだけのことだよ」とその正味の姿を提示して見せた、という話か。そう考えると特にまずいところはないというか、文脈をきちんと踏まえて読めば適切な発言だと言う気がするなあ。なんだろう。断定的なもの言い一般に抵抗があるんだろうか。