坐禅でもしてればっっ

おれは安心がほしいのだろう。安心。
んー、なんかどうしようもなくひととのコミュニケーションを断ってしまうときがあって、というか実際は一日のうち大半がそうだと言ってもいいのかもしれないけど、消極的拒否といいますか、適切な話題が振れる状況であったり、話しやすい相手がいるときでも、「なんかいーや」とあきらめてしまう。このとき、話しだすべきだとか、話しだせばいいのはわかってるんだが、みたいな感じも伴わなくて、そもそも俺には大局的に物事をとらえる心が欠けているのかもね。
こうして閉じているときは誰と話そうという気にもならなくて、それは俺の憶病が関係していると思っている。憶病はコミュニケーションにおける裏切りを恐れ、裏切りのきっかけとなりうる会話を遠ざける。どこまでほんとかはわからない。でもひとと話し始めるときに妙な負担が要ったり、また話し始めようとするときに無言の抵抗を感じたりするのを思い合わせると、自分が臆病であることはやはり一面で確かなのだろう。
そこで安心である。安心して心おきなく話せる相手。でもこれは相手の問題でないのかもしれない。自分にとって最も親しく話せる人たちにさえ、語っていないことがたくさんある。べつにそれらをすべて話してしまいたいと言うのではないが、しかし話し“うる”ようではありたい。
俺の求めるところは安心である。これは、心おきなく話せる相手というような具体的な話じゃなく、安心という抽象的ななにかを求めている*1 *2
しかしまあ抽象概念には例化があってしかるべき、またこの世界で抽象的なものを抽象的なまま捕まえることはできないので、なんらかの具体的着地点を探すことにはなるんだけど。
あと、安心を求めていることは同時に不安を避けようとしている、とも考えられそうだけど、そこは必ずしもである。いや。微妙だ。なんか今日は筆が進まず他のページなど見ているあいだに問題の気分も薄れてきてしまった。そこで本日はここまでとする。人の目を見て話す練習がしたいデスね〜。

*1:ちかごろ、具体的事例からの帰納を経由せずにいきなり抽象概念に至る思考法?をむしろ肯定するような書きぶりが見受けられますが、まあこれはいわば方法的肯定です。ですって言ったけど二の句が継げない。

*2:でも思うのです、われわれが文章を書いてものを考えるときに頼っているのはもっぱら記憶ではないかと。記憶なんてあいまいなものに頼った思考が、どうやって確実性を獲得するというのか。