リアルが充実するとひとはインターネットから姿を消します

この日記も読んでる人が減ってきた感じがしてございます。まあみんなツイッターに流れちゃったからねえ。これは日記がつまらないとかツイッターがおもしろいとかいう話では必ずしもなく、多くの書き手がツイッターに流れていったゆえに読み手の常駐する先もツイッターになり、つまり日記を読む習慣をもつ読み手が減ってるっちゅうことだと思います。はてなアンテナを巡回する習慣がない。アンテナはまあ古いとしても。でも RSS だったら 2ch のまとめブログと一緒に見れるんだから、日記を読む習慣が保存されていてもよいものだが。てゆうかこの日記の読者が減ったってのはソースどこだよ。カウンターでもつけようかねえ。
……( RSS の登録数など調べ、ここ読まれてねえなあと知り、すこし落ち込む)(まあ仕方ないが)
ツイッターの悪口でも書きます。ツイッターのおおきな使い方としてひとつ、思いついたことを書く、というのがあって、それはゆるいブレインストーミングみたいなノリのおこないです。日々われわれは生きてるうえで気づくこと考えることがあり、それらをアウトプットしたい思いに駆られる。らしい。今日のわたしはたいへんに腑抜けなかんじの文章を書いておりますが、まあたぶんたいがいのことにおいては腑抜けなのだろう。それはともかく。
たとえばアニメ見ててこのアニメは何々に影響受けてるよね、とか、こういう隠れテーマがあるよね、とか思ったとき、ひとは専用クライアントのウィンドウを開いてツイッターに書きこむ。散歩していてふと社会の構造をすっきり見渡せたり、生きる上で大事なことが姿を見せたりすれば、スマートホンを繰ってその内容を post する。アイデアは必要十分な形で被フォロー関係にある人びとのタイムラインに流れ、知が共有される。
そいつは実にけっこうなことだと見える。(なお、専門用語を多く使っているのでツイッターになじみのない方にとっては大変読みづらいことと思います。そういう人がいたらごめんなさい)
確かにたまには、はっとするような意見を目にすることはある。また、あの人のあの発言が体の臓器の中に残って、ある日ある時の行動に効いてくることもある。それは一度や二度ではない。
でも、すべてがすべてそうかといえば違う。かといって無駄な発言ばかりというわけではない。いやむしろ、しかるべき成員でタイムラインを整えれば、つねにクレバーな発言ばかりが流れる情報環境を整備できる。
しかしそれがあまりよろしくないのではないかと思う。キーワードは均質性だ(結局この話になりました)。結局この話になってしまったので詳説するのがめんどくさい。クレバーなのはいいんだけどね。人間の発言がただの情報に脱色されてる感じがするんだよな。身辺の出来事を報告してるのだったらいいけど、アイデアを提示してる post だと。 140 字の制限によってアイデアはアイデアとして純化される。そこには誰が書いたとかが入り込む余地のない、それは俳句なんかと似た事情があるが、共有部分をぎりぎりまで拡大した透明な情報だ。
でもインターネットに俺はなにを求めていたのだろうか。(インターネットの話とかもうやめません?) 回線の向こうにいる生きた人間が云々。有用な情報なら、本を読めばいいし、断片的なアイデアはそのままでは使いようがない。適切な文脈を与えられなければ。そうか。不勉強のために適切な文脈を獲得してないから、ツイッターで流れてくるアイデアをリアルなものとして利用できないんだね(ひどい展開……)。
ただ、書く側から言えば、アイデアが出たその場でアウトプットできる環境が整っているゆえに、われわれの思考は散漫なものになりがちではあると思います。なんつか「言いたいこと」が溜めこまれるプロセスあってこその日記での発散なんですよ、泥い輝きなんすよ、僕の中では。それこそツイッターはじめた当初に言ってたけど、ツイッターやってると日記で書くことがなくなる。えっじゃあ結局日記至上主義者にしか通用しない話なの。
てきとうなまとめでお茶を濁します。なぜ、ツイッターの使用によって「われわれの思考は散漫なものになりがち」かが説明されていませんしうまく語れないのですが、仮にそれが正しいとすれば、ツイッターの時代からは批評も詩も生まれないことになりませんか。つまり、読み手にやさしい、まとまった成果が現れるためには、頭の内外にあるアイデアを取捨選択するステップが必要なンですが、ツイッターだとぜんぶ垂れ流しなので、「選択と集中」型の思考がすたれる。そして選択と集中でしか到達できない深部はあるでしょうよとか。うーむ。いきなり論理的に語ろうとするから歯切れの悪い記述になるようだなあ。