日記

八時起床、カレー食べて学校へ。ロシア語の試験があるので、図書館でしばし仕込みをやる。書架のあいだで電話する奴がいていらつく。舌打ちとかしようかと思ったがそこまで至らず。でも相手にわかるように反応しないと、ちらちら視線をやるだけじゃ効果はないもんなあ。すこし時間が余ったので、『哲学の歴史』第 11 巻をひろい読み。日常言語分析のとこでグライスと並んでカヴェル*1という哲学者が取り上げられていて、興味をそそられた。
試験はつつがなく終了。それから喫茶店を見に行くつもりだったのだが、ふっと部室 A に寄ってみる。これがなんだか妙に長引いてしまって、ふだん聞かない話が聞けたり、しばらく会ってない顔に会えたりして退屈というわけではなかったのだが、結果的にはこれは反省の対象となった。受動傾向が深まっていたように思える。でもそうだな、人が多くなってくると発言しないのは今日に始まったことではないし、人によって態度が変わるのも直したいことではあるけど深刻な欠陥とまでは言えない。平常運転といえば平常運転といって差し支えない、むしろ多少の進歩も為せたかなくらいにも評価しうる。それでも今日のふるまいに関してネガティヴな印象がぬぐえない。
問題は、新しい状況にうまく対応できない頑固さにあったように思う。もっといえば、新しい状況に出会ったときにその場で対策をひねり出すことをせず、状況を静観して次からうまく対応できるようにすればいーやと思っている悠長さ、そして、その場の対応を安全に実行できる自信がないゆえに――またも――リスクを背負わないことを選択するその行動規範がしあわせじゃないと思われる。
それもそうだが、結局俺は今日のどこがまずい、望ましくなかったと考えているのかまだきちんと特定していなかった。思うに、長居し過ぎたことの気がするな。確かに楽しかったけれどそこに居続けるべきだと思われるほどのものではなかったし、むしろ俺は粘ることで何かを手にしようとしていた気がする。でも粘ることの無意味さも僕はいいかげん体得していたはずで、じゃあなにが僕を勘違いさせたのかといえばそれは若干の外的条件の違いだっただろう。そしてそれが条件法的思考の話につながる*2。条件が揃いかけていたので、うまい具合に(どんな?)なるかなと期待してしまったが、他方で「このままいってもな」という感じは通奏低音的にあって、それを平等に扱ってやらなかったのがよくなかったかな、というようなまとめ。もっと自分の感覚を信じてあげるべきだよ。
帰りの電車で座ったら眠気がきて、ふかく潜った。目覚めは良かったけど。乗車時間と適切な昼寝の時間*3からして、正味 20 分程度ねてたと計算するとつじつまは合う。睡眠不足と見るべき、なのかどうか。

*1:Stanley Cavell 。この人、『言語哲学大全』第 III 巻でもちらっと言及されている。ちなみに表記は「キャベル」となっている。

*2:この話、推敲の段階で消しちゃった。だいたいの描写だけしておくと、何 m の高さから何 g の物体を自由落下させたらそれがいつ地面に達するかを計算できるように、ものごとのありかたを、しかるべき条件がそろえば自分のありかたとは無関係に成り立つものと考えるような考え方。これは自我と世界を根本的に断絶したものと捉える二元論――世界は世界で自立して成り立ち、自我は世界のあり方に影響を与えずにそれをただ眺めることができる、みたいな――とも親和性がある。んでもこの周りの記述がなんかすっきり通らないあたり、この考え方はおそらくまちがっている。

*3:堀忠雄『快適睡眠のすすめ』、岩波新書、 2000 、 pp.160-163 参照。