深夜日記

前回の如き日記を書き連ね、まあひとまず落ち着いたものの、どことなく収まりつかぬ領域があり、てか眠かったのかなんか、眠れそう、ひと眠りしてから勉強しようとか考え、眠ろうとしたのだけども、ハイデガー存在と時間ちくま学芸文庫を読み始めて、そのうち焼酎を飲み始めて、つらつらツイッターなど眺めたりハイデガー眺めたり、ところでかれは人間のことを現存在とよび、「もろもろの学問は、現存在の存在様態である」 (p.50) なる表現でもって、ようは学問は人間のしわざである的なことを意味していると見えるんだけども、確かにこういうの見ると「もっとわかりやすく書けるだろ」「簡単なことを難しく書いてなんの意味があるの」なんて感想がわくのも頷けて、でもそんなこと言う奴はただ哲学書をバカにしたいだけじゃねーの、はじめから哲学に歩み寄る気なんかないんだろ、というのが哲学科三年生のとりあえずの感想だった。でもそういう言い方ができるのは自分がインサイダーだからだよなあとは気づいている。自分もいわゆる古典を読む意義あると思えるようになったのはつい最近のことだし。上で言われたような否定の調子にひとつゆるく反対しておけば、現存在=人間、みたいなパラフレーズを繰り返すと、ハイデガーの言いたいこととはぜんぜん違う場所に行きついちゃうだろうという予感がする。言いかえれば、哲学において「ものの言いよう」ってのは重要で、言ってしまえば簡単なことを難しく書くことで、ほんとに事が難しくなる、みたいなとこがある。気がする。
そんなこんなで焼酎を飲み終わる頃、“酒も飲んだし夜の散歩に行きたい”気が起きてきた。夜に散歩に出ることはあまりないが、たまには出てみたい気になった。でも風呂はいんなきゃならないし、どうしようか迷ってるうちに、ふと忙しく頑張ってる身近な人のことが思い出されて、連想的に俺は明日のギリシア語の試験に向けて勉強すべきことまで思いだされて、俺なにやってんだろうの心境になり少ししょぼんとした。勉強だけしてればいいってもんじゃないが、といって今の自分にほんとうに必要なのがこの夜の散歩なのかと自問すれば、身分に甘えて遊んでるだけじゃないかという気がしてくる。ただ逃げれるだけ逃げてるだけだ。立派に働いてる人は立派に働くのが常態だからそれと自分とをいきなり天秤にかけるべきではなくて、なんて常套的な理屈を出してみてもどこか割り切れず、でもこれから勉強するのがよい選択肢だという積極的な感じがするわけでもなく。結論は出ない。
部屋を出てマンションの階段をすばやく下りてるときに、「寂しいだけじゃないのか?」という問いかけが降ってくる。しっくりきた。実のあることをしてない生活の頼りなさよりも、勤労してる人への劣等感よりも、ましてや将来への迷いとかよりも、ただ俺はさびしいだけなんじゃないかと。外はひさしぶりに雨が降っていた。傘を取りに戻って、早足に歩きはじめる。