do not see

「見ようかな」と選択肢が浮かんでは「いや見まい」とそれを取り消す、ということを繰り返している。もう数日それが続いている。見ようとすれば指先ちょちょいで見れるわけだ。数十秒で確認できるわけだ。でもそれを一貫して「見ない」の判断を下し続けている。見ようかという思いが生じ続けるのもあまりないが、それを棄却し続けているのはさらになかなかない。やってることとしては、禁煙に近いのかもしれない。誘惑に一貫して断り続ける作業。そしてこれが、死ぬまで続くのであれば、確かに楽ではないのだろう。
「見ようか」という提案をこうしてことごとく却下し続けることは、自分にはめったにないことだ。だいたいどこかでひょいと覗いてしまうものだ。だいたい、自分には、「○○でなければならない」という絶対的規定が少なくて――あるいは欠けていて、たばこの例を続ければ、「たばこには害がある」と「たばこには益がある」ということを同等の権利を持たせて扱っている。言い換えれば、たばこには害があるからといって、それを吸ってはならない、ということにはならない。いやまあそれはそうなのだ。ただ強調したいのは、僕にはそうしたたぐいの強迫観念というのか、がなくて、たぶん禁煙を破るときには「吸っちゃだめだ、だめなんだけど手が止まらない」みたいな思いにはならなくて、「まあいいか」と、禁煙の誓いをなかったことにしてまた吸い始めるんだろうと思う。いや、たぶん多くの人がそうなんだろうな。
とにかく斯く様にしてひとは意志が弱いものですが、にもかかわらず例のそれを「見る」ことを断念し続けられている今の状況はなんなんだろう、と考える。きっと恐ろしいのだろうと思う。それを見てしまうと自分が辛くなるのがほとんど確実に予測できている。うちの親は咳が止まらなくなるからたばこを止めたというが、そうした明白なデメリットがあれば、ひとは誘惑を退けることができるのだろう。それに僕の場合はそれを見たとて何か利益があるわけではない……わけでも必ずしもないのだが、最近は「知らないほうがいいこともある」なんて言葉に同意している。前は、知っていることが増えることは無条件でいいことだ、知って辛くなるのは、知り方が足りないからだ、と思っていたのだが、まあでもいつも一挙にすべてを知ることができるわけではないわけで。
そもそもそれを見ることになにか喜びを見いだしたりしているわけでもない。それを見ることが何らかの点で自分に有利に作用するわけでもない。なのに見ようかという気を起こしてしまう。楔のようなものだ。ひとをある行為に張り付けるのは、習慣だけではない。