日記

『ヨーロッパ思想入門』を読んでいる。
ヨーロッパ思想入門 (岩波ジュニア新書)
章立ては、ギリシアの思想、ヘブライの信仰、ヨーロッパ哲学のあゆみ、とある。この二番目の、ユダヤ教キリスト教の話がおもしろい。愛に関する思想が哲学的な示唆に富んでて、なかなか目を開かされる。いままでこの宗教に対してあまりに皮相な把握しかしてなかったなあと*1
創世記を論じる部分では、次のようにある:

こうして、この神は言葉によって「世界」を無から呼び出した。このことの意味はなんであろうか。
まず、この神は他者を呼び迎えるというしかたで、自己充足から脱出する神である。「他者を呼び迎えること」とは愛であるから、この神は本質的に「愛」なのである。愛は絶対的に他者を必要とする。だから、この神は「無から」でさえ他者を創造するほど徹底的に愛なのである。

と。これを読んでなるほどと膝を叩いたんだけど、一年前の僕だったら「こんなのナンセンスだろ」と思ってたはずなのである。いや自分が当時よりもセンチメンタルに傾いてることがその感想の変化に大きく寄与してるのは間違いないにせよ、しかし考えたいのは俺のことではなくこういう言論一般について。果たしてナンセンスでないのだろうか。神が世界を無から創造したとの(一種の)事実から、神が愛する存在 loving being であることが出てくるのだろうか。世界は他者だ。しかし、どういう意味において? 自分以外の存在者をすべて他者とすれば、世界は他者なのか? 神は世界から独立した・断絶した存在だから、やはり神にとっては世界はわれならぬもの、つまり他者だ。しかもそれを自分から求めるのだ。自分ひとりでそのままでいることもできたのに。
たぶん一年前の僕がこのタイプのおはなしに感じていた不満は、議論に綿密さが足りないことへの不満だったのだろう。世界は他者だ。世界の創造は愛だ。そういう、感覚頼りのガサツさに不誠実を見ていたのだろう。今も論文がそういう記述ばっかりだったら怒るけどね。小説がそういう記述ばっかりだったら……まあ、視点の鋭さによるかな。平凡なことをガサツに述べてたらやっぱ、怒るでしょうね。

*1:ちなみにだが、キリスト教に対してわれわれが感じる違和感は、単一の神の実在ということの信じがたさ、それゆえそれを信じることのうさんくささにその源泉があると思う。いわゆる神様をわれわれは信じる気になれないので、そして神の存在がキリスト教信仰の核にあると考えるので、キリスト教全体もあまり意義あるものと考えてこなかったのではないか。