キャラクターとしてのふるまい、テクストとしてのふるまい

ここしばらくのツイッターの使い方は、「書くべきことかどうか迷ったらとりあえず書く」だった。アウトプットの量を増やせば、なにを書くべきで何がそうでないのか、その基準もしだいに見えてくるだろうと予想した。結果的にはいまいちである。問題は反応が返ってこないことであった。自分の発言に反応がくる割合は、だいたい 40 ~ 50post にひとつぐらいだ。いや、 favorite も入れるともうすこし上がるかな。とにかくそんな低水準でやってるものだから、自分の発言がウケたかウケてないのかもよくわからないのである。いや、軒並みウケてないのか。別にそれ自身はかまわない。フォローしてくれてる人はいるので、きっと何らかの意味を持って読まれていることもあると信じる。それがリプライや fav という形で表れないというだけだ。まあとにかく当初の試みは失敗であった。
閑話休題
ここしばらく書いてきたのは、「ドーナツうまい」だとか「ドラマつまんない」とか「せつない気持ちになりたい」とか「山本精一聞いてる」とか、そういうたわいない、誰にでもありそうな(最後のはそれほどでもないかもしれない)事実や感想の報告である。ちなみに今挙げた例はたぶん実際には一度も書いたことはない。さて、そうした発言は情報に乏しい。わかりやすく言えば、どこの誰とも知らんやつがドーナツを食っていようが青汁を飲んでいようがドクターペッパーでヴォトカをわっていようが、そんなことは知らんのである。知りたくもないのである(いやそこまで言うか……)。そうした発言が有意義なものとして受け取られるのは、発言者のキャラクターが読み手のうちに確立されており、その発言がそのキャラクターの枠組みのもとで鑑賞されるときに限られる。それは広くいえば文脈を与えるという話でもある。しかも、なにをぶち込んでも平気な、柔軟な文脈を。これは書き手を読み手に引きつける戦略である。どこかにバイトで疲れてる男がいると教えられても、そうですかと返すしかないが、自分の彼女がバイトで疲れていたら、それは自分の感情にいくらかの波を立てる。人を殺したいとネットで書いてる人がいたとしても、まあ、そう考えることもあるだろうなと思うくらいだが、部活の同期がおなじこと書いてたら「ん」と思う。ひとは発言を積み重ねていくことでキャラクターを確立する。そしてそのキャラクターの中で鑑賞される。望んだことであっても不本意でも。いまのは親近関係にもとづく話であったが、ツイッターでのふるまいも同様で、いつも死にたい死にたい言ってる人は、しだいに周囲からも「死にたい」と言い続けることを期待され始める。絡まれかたも、「死にたい」に関連したものが増える。キャラクターが変化することはふつう歓迎されない。読み手にとっては、鑑賞の枠組みをまた作り直さねばならないからだし、その前に人間の本性は変化を嫌う。でも本人としては変化せざるを得ないときもある。いや、話がずれている。
キャラクターは、確立された、なんでもぶち込める柔軟な文脈だった。それは日々の生活におけるコミュニケーションで起こっていることと同じだ。でも、もうちょっとゆるい枠組みで発言していくこともできていいと思うし、できる。簡単に言えばそれは 2, 3 post 程度で構築される文脈である。……いや、より率直になれば、キャラクターという文脈を背負うの重たいな、という感想があるのだと思う。僕は発言の中身を見てもらいたい。それを読むのにキャラクターという文脈が一役果たすこともあろうが、そのくらいの文脈は自分で用意できると思う。キャラクターはコミュニケーションを見かけ上円滑化するが、話の中身について考えたいときは、余計なものを連れてきすぎる。そして今の僕は、(ここまで踏み込んで言うべきかわからんが)この僕という存在が発した言葉として言葉を読まれることを特別望んでいるわけではない。僕が詩を書いたとき、「楡が詩を書いているぞ」という形で理解されたくない。楡という何らかの意味での知り合いが、詩を書くという試みをしている、という理解のされ方を望まない。あいつがギター始めたんだって、みたいな情報と同じ引き出しに入れてほしくない、いや、入れてもいいけど、詩そのものには別の引き出しを確保してほしい。ん、やっぱりコミュニケーションの常みたいな話になってきたぞ。まあもうちょっと腰を据えてお話できたらいいよな、とは思うのである。話題がないからこうなるんだけどね。