たるをしる

ツイッターではもっぱら物欲しそうな顔してる僕です (cf. http://d.hatena.ne.jp/lassen/20120217#1329476032) 。自分の発言になにか反応ないかなと期待をふくらませているし、被フォロー数は日に二、三度確認するし、結局“誰か話しかけてくれ!”という思いが底に流れている。俺がタイムラインを眺める視野の底に。誰か話しかけてくれ!は、同時に、誰か助けてくれ!であり、救済を求める思いでもある。
その救済を求める思いは真剣だ。

その救済を求める思いは、その思いであるかぎりにおいて深刻であり、本心から発せられたものである。だが、本人が――教育の観点からみて――ほんとうにその救済を必要としているのか。それは別べつに考えることができる。
ある日、「余計な欲望出してるだけじゃないか」と思い当たった。ぼくは、ツイッターで物欲しそうな顔しなくても生きていける。奴隷道徳。ツイッターでの elmman の扱いにおいて不満がある、という前提のもとにおいてのみ俺は救済を欲する。しかしその前提は俺の操作のもとにある。不満があるかどうかは、自分が決める*1。理由の不確定性から考えても、信念は付け替え可能だと思われる (cf. http://d.hatena.ne.jp/lassen/20111117#1321541371)
欲望が消去できることはわかった。だが、「余計な欲望」とは何か。裏を返せば、余計でない、必要な欲望もまた存在することになる。だが必要というのは、なにに必要なのか? 欲望は何かの道具なのだろうか。「余計」の裏は「必要」ではなく、むしろ他の何かではないだろうか。余計を余剰と解すれば、その裏は現在あるもの、現状与えられているもの、となろうか。色の塗られた丸があって、その枠から色がはみ出している。これが余剰*2。とすればまあ。説教臭いのでやめる。
ともかく上記のように考えてみると、結局、余計でない欲望というのは、現状を欲し続ける欲望ということになる。ただしこの現状は、変わり続ける現状である。つまり現状を欲し続ける欲望は、現状維持への欲望とは異なる。しかし“是”と肯定する所作・態度、が、はたして欲望と呼べるのかは疑問だ。だって欲望には否定性がつきまとうはずだろ。欲望は“いま・ここ”ならざる何かに向かって進むはずだ。でも、「現状を欲し続ける欲望」ってのはなかなか面白いので、もうちょっと手許においておこうと思う。

*1:こう書いたとき、欲望の決定論/非決定論みたいな話を思う。言いかえれば、欲望は、欲望する者が主体になって欲望するのか、それとも欲望は欲望する者にふらりと宿る、本人にはどうしようもないものであるのか。この話を詳述する時間は今はないが。

*2:余剰がすなわち富・豊かさである、という見做しには近頃強固な説得力を感じる