リアリティというか実在性の話


旧字使ってて読みにくくてすいません。今年入ったころからこんな文字遣いを続けています。さて。
紙幅の制約で(一枚に収めようとして)最後のほうごにょごにょ圧縮された物言いになっていますしここで改めて整理しておこうと思います。
リアリティの欠如みたいな感覚がずっとあって、それはデカルトの懐疑を思い出しもするんだけども*1、でも懐疑論というよりは裏返しの懐疑論、はじめから疑ってかかるんじゃなくて、目の前の世界に「リアルだよね?」と問いかけた時にそのリアリティが疑わしくなってくる体験である。ここしばらく何かがリアルだと思えたことがとんとない。かといって自分の踏んでいる一歩一歩が幻のように思えて・目に映るものすべて嘘くさく見えて、といういわば積極的なアンチリアリティに包まれてるわけでもなかった。ただ目の前のものを「これはリアルか」と問うと、いつも自信がなくなってくるのだった。腕をつねって感じる痛みはリアルかというと、リアルなのか? あの失恋(まがい)の苦しみはリアルだったのか? こないだ友人と旅行した愉快な思い出はリアルだったのか――いや、それはリアルだと言いたい。ただしその判定は倫理性からくる判定であるように思える。友人との思い出が嘘だったなんて、言いたくはない。(まあ言ってみればその程度の疑わしさなのかもしれない。)
しかしこの問い方がそもそもおかしかったのではないかと返して、この文章の主旨となる。リアルとはつまり目の前に与えられてることの別名である。リアルとは特別の問題なく「ある」と言ってさしつかえないものを外延としてもつ。つまりなにかがリアルだとはふつうはわざわざ指摘しない。リアルじゃないものを指摘したほうが早いからだ。あるものがリアルなのかどうか問われるということは、その問われているものが実在性において特別怪しむに足る存在――たとえば幽霊とか――であるときのみである。すると何が実在して、何がそうでないかは、科学が決める部分が大きいのかもしれない。懐疑論が持ち出された場合はあらゆるものが怪しくなるけど、それは別格。
ポイントは、リアルはアンリアルとの二項対立において存立してるとゆうことで、しかも“アンリアルでない”という二重否定の相においてリアリティは確保される、ということ。言いかえればわれわれの認識においては、何かが「アンリアルである」という指摘が先行する。実在が疑われるものがまず背景から浮き上がってくる。非実在的なものが目に映るということは驚きだからだ。他方で実在的なものは背景に沈静していて、そもそも認識の対象にならない――というと語弊があるが、とりたてて「このコップは実在するんだ!」とあげつらいたくはならない。ふつう。
そうした前提を無視して、何にもかにも見境なく「これはリアルか」との問いを浴びせていったことが間違いの源泉だ、という話です。このコップはリアルかと問われれば、「まあ、そうだろうよ」と答えるべきなのだが、こう問うていた自分にはなにか「与えられているものとしてのリアル」よりももう一段上のリアルがあるかのような気がしていた。暗黙裡に。いわば真のリアル。たとえば赤いトマトを前にして、「このトマトは赤いのか」と問うことが、目に映ってる赤さとはなにか別種の赤さを問題にしていると理解されるのと同じである。でも真のリアルなるものを僕はさしあたり考えたい気にならない。だからこうした問題設定は失敗したね、という、まあそんな結論。


ところでこの文章では実在性とリアリティの混同が用語上起こっていて、だからこの話も少しばかり混乱しているんだけど、さしあたりリアリティは実在性と置き換えて通る話だからそうして読んでもらいたい。えっ、いやでもそうしたらリアリティの喪失というもともとの問題意識が改竄されちゃうじゃん。結局、リアリティとはどういう概念なのかについては改めて詰める必要がある。
たとえば、「今感じてる痛みだけがリアルだ」みたいな言い方については、どう受け取ったらいいのだろうか。そしてそれがもともとの問題意識だったんだが。

*1:余談だけどデカルトは、自分の目に見えてる世界が《実在しない》かもしれない、という可能性を考えたのか、それとも、自分の目に見えてる世界が《ほんとの世界じゃない》かもしれない、という可能性を考えたのかはよくわからない(いやたぶん前者だ)。前者は実在論的な懐疑だし、後者はリアリティにおける懐疑だと位置づけている。だけど、リアリティってなんなのか。それは世界の実在性に吸収される気もするし、でもいっぽうこの語は「ほんとうらしさ」みたいな意味でもつかわれるので、うーん、ともかくリアリティという言葉については一考の余地ありである