どくせん欲

好きな子が Twitter で別の人とやりとりしてたらいやな気分になりませんか。楽しそうにやりとりしてる姿が想像されていやな気分になりませんか*1。文字にして書いてみるとほとんど明らかなのだが、独占欲だ。
あんなやつとつきあうなよ。今すぐ離れろよ。僕の心の声はそう叫んでいる、のだろうか。よく聞こえないけど。
最近ようやく気づき意識し始めたのだが、俺はそうとう程度 抑圧的な性質を持ってるようだ。持ってるかもしれない。自らに生じた感情を抑圧し、なきものとする。それが生じていないかのようにふるまう。いや、ふるまいだけじゃない、それが生じていないと自ら信じる。自己欺瞞の構造ですね。
自己欺瞞と自己犠牲 (双書エニグマ)
自己欺瞞においてやっかいなのは、自分を欺いていることに気付いたそばから、その欺いている事実を自分から隠蔽しようとする遡及的な構造である。自己欺瞞する者は、自分が自分にうそをついていることに対してうそをつき、そのうそについてもいつわりを繰り返し、逃げ続ける。自分の心の声に耳をふさぎ、耳をふさいでいることから目をそらす。目をそらしていることから意識を離して、何も起こっていないかのようにふるまう。
そんなことが頻繁に起こっているのかもしれない。特に勉強したわけでもないし深層心理というもの(による説明)を僕は信用していないんだけど、確かに、自分ではっきり気づいていないけど自分で思っていること、というのが、どうやらあるようだな、と近頃では思う。
僕の思考の特徴は(と、自分で言ってしまうけど)、どっちつかずという点にある。なにが本意でなにが不本意なのか、いまいち見分けられない。ことが多い。そしてそのとき、じつは本意ははっきりときまっていて、そしてその本意は、倫理的に問題がある選択肢だったり、もう大人なんだからとるのがみっともないと思われる選択肢だったり、自分にとって不利益をもたらすであろう選択肢であったり、する。のかもしれない。
きみがぼくのことを嫌いでも、ぼくは傷つかない。そこまで深くは。――そこには、自分が傷つかないための構えがあるように見える。自分と他者の関係がどうこう以前に、「自分が傷つかないように」という大前提があって、その大前提の達成のために最初っから「傷つかない」と宣言してしまう。そこにふるまい面での支障が必ずしも出るとは限らないのだが、いわば傷つく可能性がなければ、そこに賭ける意味もなくなる、なんかいつも一歩引いた対応になってる気がする。相手の領域にずけずけ踏み込んでいくような蛮勇もないが、……でもここで自分が蛮勇と呼んでるものが他の人にとっては「ふつう」であったりするんじゃないか。
なお、「そこまで深くは」と言ってるところには、相手を傷つけないための配慮まで見えて憎々しい*2。でも、その配慮は失敗している。相手は「そこまで深くは」と、わざわざ付け足された譲歩にむしろ傷つくのである*3。しかも、その「配慮」とは、じつはもっぱら自分に対しての配慮――自分がひどいことを言っているとならないための配慮なのだから、ちょっと救いようがない。だいたい、相手の苦しみを苦しんでるんじゃなくて、俺のばあい、自分が相手を傷つけたという事実に自分が傷つくという二重傷つきの傾向があって、なんかそのへん利他性皆無でひとりよがりで人間としてくずだなーという気はする。
なんだこれ、いつになく自虐的・自己否定的だなあ。
いやこういうふうに書いてるということは、僕は上記の如きひとりよがりからは一歩踏み出しているということを意味してもいるんですが。生活んなかで、自らの感情を明らかにしそれを認めるよう努めてきたし、人のために何かすることの楽しみも知るようになったし、えー、なんだっけ。書いてて忘れた。でも他人の苦しみを苦しむのってのは、難しいですね。なんか。

*1:フィクションです

*2:読み返して、「どこが?!」と自分でも思ったよ。わかりづらいよ。嫌われて「まったく傷つかない」のと「(少しでも)傷つく」のを比較したとき、その人の重みは後者のほうが大きいとみられるだろうという理屈です

*3:つまり、「結局大して傷つかんのかい!」という