ぬっき

わからない。形骸化した好意。感情の抜けた信念は行為の合理的理由たりうるか。理由があるかどうかより、状況が有利でなかったの? 状況をぶっとばしてまでも行為する理由というのは、原理的にあるのか。それができるのは感情だけではないのか。行為の理由は、いつも、「状況が許せば」ゴーサインを出すまでのものではないか。
感情に強弱があるかどうかはわからないし、僕は『時間と自由』におけるベルクソンにならってそれを根源的レベルでは拒否するのだけども、しかしそれらをひとつひとつ区別して順序をつけることはできる。それはプラグマティックなレベルでは強弱として扱ってよさそうだ。
別にかまわない。明日死んでもかまわないし、死なれてもかまわない。ウソだろ。むしろ、自分にそう言わしめているものがあって、それが、傷つかないための機構だ。あらかじめ信念のほうを操作しておけば、生じる感情をやわらげることができる。認知療法のまがった運用。
たいやき割ってこんにちは あふれる光 虹色の未来 雪が降ってた二月の泥道に 足跡をつけて それは十年後の自分にささやかな呪詛を投げかける 俺のせいじゃない 俺のせいじゃないっていうか未来は俺の背じゃない。 靴についた泥をぬぐわずに歩くことは 君のためでも誰のためでもなくて ただぼくはオレンジ色に満たされていたい なんて。