あなたが無駄に生きたその一日は、誰かが死ぬほど生きたかった一日なのだ。
誰かの一日とあなたの一日は比較可能でないのだから、おのおの自分の一日をせいぜい大事にすればいいのではないか。なぜ比較可能でないというかというと。「一日」は、それが含んでいるものが雑多すぎる。「誰か」は朝起きても顔を洗わないかもしれないし、ツイッターをやってないかもしれないし、バイトをしてないかもしれない。端的に言って、あなたの一日と誰かの一日は一から十まで違っている。そんなものをどうやって比べるのか。かといって、白紙の 24 時間という“容れ物”として一日を取り扱う道はとりたくない。「明日を《死ぬほど》生きたい」ということの内実が、単に人生を一日延長したいということであれば、上の警句はなにか有意義なことを教えてくれるものではなくなる。たんに「あと 24 時間欲しい」と言うのは、「あと 5 分だけ寝かせて」というのと変わらない。それは上の警句の意図するところとはむしろ逆だろう。
似たような言い方を考えてみる。「食べたくても食べられない人もいるのだから、感謝して食べなさい」。 Lucky ってこと? 「先進国でよかった……」と思えばよいのだろうか。そしてまたも何と何を比較すればいいのかわからない。「食べたくても食べられない誰か」と「食べられている私」は対称的ではないし、「食べたくても食べられない私」と「食べられている私」も対称的ではない。「食べたくても食べられない私」と「食べたくて食べられている私」は対称的、それゆえここではじめて比較が可能になると考えるが、いまのところ「私」はそもそも食べたいと思っていないので、この比較は「私」の関心のもとにはない。
いやむしろこうではないか。「食べたくても食べられない」状況におかれたときはじめて、「食べたくて食べられている」がリアルなありがたみを伴った想定となる。つまり、この二者の対立が意義あるものとして現れてくる。そして、この言い方は、「食べたくても食べられない」状況を喚起させ、それに比べて現状がいかにありがたいかということに意識を向けさせることにあるのだろう。落差をつくり、下から眺めて「上だ」と感じさせる。
最初に掲げた警句もまた同様の仕組みだといえる。「明日を死ぬほど生きたい自分」を想像させることで「今生きている自分」のかけがえのなさに気づかしめる。比較される二項は、「生きたくても生きられない自分」と「生きたくて生きている自分」である。つまりこの言い方は、「べつに生きたいわけじゃないが生きてる現状の自分」を超越して、「生きたい」という次元へと視座を一時的に飛躍させる効果を持つといえる。
と、すると、この言い方は、げんに自分は明日死ぬかもしれないというリアルな把握とは無関係なところで成り立っているのだろうか。自分は明日事故に遭ったりなんか急に発作起こしたりして死ぬかもしれない。そう考えれば、いま生きているうちにできるだけのことをしておこうという気になる*1。でも「死ぬほど生きたい誰か」を引き合いに出すこの言い方は、じつはそれとは関係ないのかもしれない。

*1:なぜそうなるかは興味深い問題だが、今日は扱わない