なにかを断念する感覚
なにかを断念する感覚に耳を傾ける。勉強の合間にツイッターをチェックすることを断念する感覚だったり、外出ついでに大学に立ち寄ることを断念する感覚だったり、それはする。
断念する感覚は、あきらめる感覚ではない。断念するときは、いつも魅力ある選択肢を断念している。あきらめるときは、いつもリスクある選択肢をあきらめているのである。言わなきゃいけないことを言うのを僕はよくあきらめている。絶対に、今、「言わなきゃいけない」というわけではない、と考え直してあきらめている。まあそれはそれとして。
断念されるものは、それを実行することに基本的にリスクはない。あるいは心理的抵抗がない。ギターを弾くことで自分の人間的価値がおびやかされる心配はない。ツイッターを見ることは無害だ。対して発言することは多少なりとも危険を冒すこころみだ。リアルでも同様。話を聞きに行くのは断念されることであり、話に入ることはあきらめたくなることである。
積極的にリスクをおかせとは言わない。ただ、ノーリスクなものを減らしていくことによって、リスクあるこころみに身体が向かっていくということはある。リスクをおかすことがそれ自身でよきものだと言うつもりはない(単にスリルが欲しいわけではない)が、結果的に必要になってくることだとはいえる。
あることをするのにリスクがあるということは、そのことに恐怖を感じることが含まれる。あることに恐怖を感じるということには、そのことが自分にとって未知であるという事実が隠れている。つまり未知なことに人間は恐怖し、ためらい、リスクを感じる。でも、便利に生きていくためには世界の探求を行わなければならない。リスクをおかしながら未知の領域をすこしずつ減らしていくこと、それが成長することなのだと思う……。成長なんてことば使いたくない*1。
断念する感覚は、生活がよい方向に向かっていることを教えてくれる。
なんか最近例示してて思うのだけども俺は起きてる間ツイッターとギターしかやってないみたいになってますね。すいません。