疑念と不安

昨日に引き続き、『新世紀エヴァンゲリオン』の DVD を視聴する。いまから。そう思うと見たくない気持ちが出てくる。遠足の当日になって行きたくなくなるのと似てる、かもしれない。
ものひっっっさしぶりにアニメというものを、ひいては映像作品を見ることになったが、昨日はとてもおもしろく視聴した。それだけに今日見るのが怖いという面があるのだろう。「エヴァンゲリオンを見ることはおもしろい」という、せっかく確立した認識を崩したくない。それはこれからおもしろくなくなっていきそうだ、という意味合いではない。現実的にはどうあれ、いちパーセントでも失速する見込みがあれば、その先を覗くのをためらう。
最高の作品が最高でなくなること、おもしろい度合いが少し下がること、を、功利主義的な角度から「悪」と断じているわけではない。これからの視聴体験が世界の「おもしろい」を減じる可能性があるからためらっているのでもない。それよか、一度確立された認識が改訂される可能性があることが問題なのである。信念、固めたいよね……。
世界の名著 59 パース・ジェイムズ・デューイ (中公バックス)
偶然・愛・論理
というわけでパースです。「信念の固め方」。人間、わからないことを見つけるとその不明をなくしたく思うもの、らしいです。そしてその不明をなくすために「探求」をはじめます。つまり人間は信念を固めようとする動物だってこと。疑問とその解消の運動。この構造は万人に共通で、ただ信念の固め方にはいくつかある。いちばん原始的なのが「固執の方法」で、これは一度 A だと思ったらその判断をかたくなに守って変えない態度ですね。いくら不利な証拠が出ても、聞き入れずに A で押し通す。意外とやりがちです。パースはこの固執の方法を含め四つの方法を紹介して、最後に「科学の方法」を出して、これがいちばん合理的な方法よって言って終わる。
でいま自分がとってるのはこの固執の方法に近いものだなと。固執してる人は、自分の信念が覆されるような証拠を出されても無視するけど、そこまで無神経ではいられない誠実でありたい僕はそもそも証拠が出るのを防ごうとする。それが DVD を見るのを避けるという行動に例化されています。おもしろいと思っていたものが、実はさほどおもしろいものじゃないかもしれない……という可能性が出たとき、それは不安を生む。疑念は不安を伴い、それゆえ探求とは不安を解消しようとする運動でもあります。でもそもそも探求する必要が生じなければ不安をたとえいっときでも感じずに済むわけで。


とか書いてたらやっぱり三十分とか経っていた。さっさとビデオ見ます。それと、上のパースの紹介、軟派な入門書みたいにデフォルメされてるので気をつけてください。