日曜日だし面白いことがないですね。学校来てないし、人に会う予定もないし――ほんとうはあったのだが、卒論関係の書類を書くためにサボるのである――。人に――家族じゃない同年代くらいの知り合いに、会って、話したり話さなかったりする時間は、自分にとって確かに重要なものであるらしくて、大切にしてるものではあるらしくて、そいつが欠けると不安になる。
でも、いつもの環境――そこにいる時間が長い環境――から投げ出されたとき不安になるのは、その環境がどんなものであるかとは独立なのではないだろうか。どんな環境であれ、いつもいる場所から離れたら不安になる。勝手がわからなくて途方に暮れる。なにをすればいいのかわからない。いや、わかっている。卒論の紙を書く。そのために本を読む。わかっている。けどわからない。どうして卒論の紙を書く気持ちになれるのか。本を読む気になるのか。そんな簡単なことさえ忘れる。
面白いことはいくらでもある。はずだった。微積分学の教科書を読み進めてもいいし、音楽を聴いてもいいし、こうして文章を書いてみてもいい。俳句を作ったりもできる。なれば、なぜそうしないのか。なぜそうしようと思わないのか。それら種々のアクティヴィティに期待できないというわけではない。だが期待できるというわけでもない。ここで言っている「期待できる」は、リアルな「期待できる」で、その微積分学の本を開いて眺めてわくわくするわけではない――いや、実際、眺めてみればわくわくするのかもしれない、だけど、その本を開いて眺めてみるまでにいくつかの障壁があるのだ。その本のことを思うだけで数学の勉強をやりたくなってくるならいい。だけどならない。
とかなんとか書き連ねてくるとわからなくなってくる。やっぱり俺は数学をやりたいのかもしれない。気分とはそういうものだし、むしろそういうものを気分と呼ぶのだし、感情のリアリティが気分に属するものだとしたら、なにがリアルかも目まぐるしく変わっていく。「君は数学が好きなのか」。そう問われて、「そうです」と迷いなく答えられないとしたら、それは、その答えがリアルであることを要請されているという思い込みによる。きっと思い込みだ。「君は哲学が好きなのか」「そうかもしれない」。哲学についてはもう好きというより生き方に組み込まれてしまっている観があるので、好きとかどうとか問う段階を過ぎていると思う。でも確かに読む本は哲学に関するものがたぶん九割を超えているし、つまり「好きかどうか」で問われているのはいまの自分の心持ちや気分などではなく、傾向性のことなんだろうと思った。好きという心的状態がいま手前の中で生じているかではなく、もっと観察可能な、だから俺は勉強している人扱いされているのだろうか。印刷された紙の表面をただ眺めているだけかもしれないんだぜ。そこでほんとうに「読書している」かどうかを確かめるにはまた別のテストにかけなきゃならなくて、本の要約を書かせたりするのかもしれない。でもその要約が適切かどうか判断できるにはその本の内容に通じている人でなくてはならなくて、その本の内容にその人が通じているかどうか判断するのは誰なんだ? それはつまり業界人の集団だ。互いに互いが業界人だと定義しあう。