人のツイートをすみずみまで見てるなあ、と思うひとがいる。具体的には、僕がふらりとあらわれて投げ置いた言葉を、きっちりその人が拾ってくれる、ということを何度か経験したので。わかりづらいですね。でもこれ以上に具体的な表現でこのことを語るには心の障壁がいまは高い。
他人の日記がまた面白い時期にきている。他の人が書いたものを楽しくおもしろく読むことができる時期にきている。それを受けて自分も何か書こうという気をおこす状態にいる。時間と心に余裕があるからだろう(「心」とはどういった領域を指すのか? 心とはすなわち現象の土台である自分そのもののことではないか? それでも、外部のあらゆるもの“でないもの”の、最終的な「その他」の領域として、心という言葉は機能しているかもしれない)。学校が休みだからだろう。大学生ヒマだとはいえ(やはり近頃は確かにヒマだと思うようになった)、授業やら受けていると時間はかかるし、長年積み重ねてきたのろまさは「時間はありあまるほどある」の類の言いかたにいちいち疑問を覚えるよう僕を訓練してしまった。余裕があるというのはいい。というか、余裕をもって臨まなければならない。少なくとも、ひとの日記を読むときは。
日記は、身辺の具体的なことが書いてあるほうが面白い、と最近は思う。より正確に言えば、必要な情報を包み隠さず、自らの思考や心情を素直に、書いた(であろう)文章がよいと感じる。やはり、虚飾はよろしくないと思う。それは虚飾が面白さでは真実(とまあここでは言ってしまいますが)になかなか勝らないからかもしれない。たんに僕が具体的な現実をひとより欲しているのかもしれない。具体的な情報があるほうが、言いたいことはずっと理解しやすくなる。一般論ばかり語ってる自分は、だから、だめだ。顔の見えるインターネットに!。
思えば、大なり小なりがんじがらめのリアルから離れて、「ほんとうの自分」をすっかりあらわすことのできる場としてインターネットは現れたのではなかったか。ある時代の自分にとっては、確かそうだったはずだ。それが今は、ネットのなかにもまた等しく世間は存在することを意識せざるをえず、まあでもそれでもリアルよりはだいぶふるまいやすいんだけど、しかし“書きづらいこと”ってのはあるわけで、人の間でニンゲンと書くのだよというティーチャーのレクチャーの普遍性からは逃れられていない。
読まなきゃいけない本は多い。勉強しなきゃならないことも多い。そのために本をまとめて買ったりする。そのくせあまり読めていない。……と書くと行き詰っちゃうことがわかった。買ったので読もう、と書いておこう。読んでおれば、買うことへの罪悪感のようなものも姿を消していくはずだ。