「動けない」再発中。長期休暇だからか。

パソコンですることには時間がかかる。なぜか平気で 2 時間も 3 時間もあまり有益でないことをしている。それらは一部は必要なことなのだとしても、そのぶん読書に充てられればもうだいぶマシな生活を送れると確信している。でもなぜかパソコンに手をつけると 2 時間とか 3 時間とかかかる。いや、それだけではないかもしれない。とかく生活に隙間が多い。大学に行って授業を受ければ、すくなくとも 90 分は充実した時間が過ごせる。いやそうでもない。充実したと感じられているだけであって、それは中身の薄い 90 分かもしれない。そういう授業は、大学だもの、ある。いや高校にだって中学小学校にだってそういう授業は少なからずあった。ともかく特定の時間、特定の対象に意識を集中し、ともかく取り組もうとした、そんな体験が、ある種の充実“感”をもたらしているのだと思う。逆に言えば、自分では「あまりできなかったなあ」と思った日であっても、わりとそれなりの成果を出せてる、ということも充分ありうる。でも今の自分はそうではない。一日のうち、 1-2 時間相当の仕事しかできていない日が多い。
生活にすきまが多いのだ。必要のないクッション的な「つなぎ」的なおこない、逡巡、無意味なためらい、そう、ためらいだ。僕の俺の生活はためらいの部分が多い気がする。今でも多いんだ。ためらうより行うべきだ。行うことでその行いが間違っていたかもわかってくるし、これから何をすべきかも見えてくる。ためらうことは選り好みのプロセスに見えて実は思考停止だ。人間、体を動かさないと頭も働かない。考えるとは、じっと動かずにいて頭だけが働くことではない。何かを決めようとするとき、僕はふと立ち止まる。どちらを選ぶべきかと。しかし、「どちらを選ぶべきか」だけでは何ら中身のない問いでしかない。せめて「それを選ぶことで起こる不都合は何か」とか「今の自分が優先してやるべきことか」とか、具体性を加えてやんなきゃならない。でもそれより、さっさと選んで実行してしまったほうがいい。日常的に行われるいくつもの決定の中で、やり直しのきかないことなどほとんどないし、それによって大きな被害を被ることもほとんどないのだから。(厳密に言えば、そのときその時点で決定して行なったことは、もう二度とやり直すことはできない。形式的に述べれば、時刻 t1 に行為 a1 をしたら、 t1 において他の行為 a2 をすることはできない。だけど、それを恐れていては、なにも学ぶことができない)
念のため付け加えておけば、ここで言っている「決定」「選択」というのは、「生活はいくつもの選択の総体だ」とか言うときのもので、たとえば「ここで布団を出るべきか」とか「いったん散歩に行くべきか」とか、いったものだ。そういう軽いものであれば、そしてそれによって大きな不都合を被るとか、つまりリスクが大きいのでなければ、さっさと試してみるに限る、というわけだ。ただし、インターネット、あれはいけない。時間がかかっちゃうからね。選べるものが多すぎる、しかも手を伸ばすのが驚異的にエネルギーを伴わない、というのがカラクリか? 俺はパソコンの中でも逡巡しているのだ。そうしてやめるのがいたずらに遅れる。「パソコン、ここでやめるべきだろうか」なんて問うちゃっているわけだ。「べき」という言葉を使ってきたが、実際はそれは規範の問題ではない。あくまでも個人的な価値や幸福の話であって、それは自らの感覚に基づくしかない。自分の身体といつも対話をしていなければならない。
(補:「〜すべきか」と問うとき、つまりためらいが生じるとき、そのしようとしていることに対して自分は心理的な抵抗を覚えていると言えるかもしれない。「自分はほんとうにそれをすべきなのか」と問うことで、しようとしていることを先送りし、あわよくば阻止しようという仕組みがはたらいている、と。だから、その抵抗を除去するための策も立てるべきだろう(この「べき」は、話の運びからして“当然”だ、という意味ね)。)