時間と自由

そういえば「なんか書く」と言っといて忘れていたので、ベルクソンについて少しだけ。一読しただけなので誤解があると思いますが。
ベルクソン(中村文郎訳)『時間と自由』、岩波書店岩波文庫)、2001年(原著1889年)。
時間と自由 (岩波文庫)
『時間と自由』(これは英訳のタイトルからで、原題からの訳は『意識に直接与えられたものについての試論』)でベルクソンは、意識にうつりゆくことどもはすべて違っていて、一寸たりとも同じものはない、という。それは質的な差異とかと呼ばれていて、たとえば一様にみえるこの机の表面はよく見ると木目やら傷やらあるし、色も全体が厳密に同じ色をしているわけではない。同じ高さ・同じ長さの音も、一度目に鳴らされたものと二度目のものとは印象が異なっている。二度目は一度目の音をふまえて聴かれる。それゆえメロディーはひとまとまりのものとして成立しうるのだ。などなど。この質的違いに対立することとしてベルクソンは「同質性」という表現を用意していて、これは現象のレヴェルではほんとうは異なるものを、「同じもの」とひとまとめにして理性によって処理するときに現れる。完全な三角形はないけど、頭のなかでは 3 つの辺は完全にまっすぐな直線として表象されるし、しかも同じ直線をいくつも考えることができる。時刻を数直線上の点として表現することも、複数の時刻をおなじ平面の上に(同時性のもとに)並置することであり、別べつの時刻を同質なものとして扱うやり方だ。
さて、ベルクソンはこの「質的差異」と「同質性」のうち、質的差異のほうをいわば本来的だとする。同質性は頭のなかの作りものだ、というわけだ。そうして、これを、自分の話に引き寄せてみると、「人生が動いている」というのは、この質的差異がはたらいてる状態のことを言うんじゃないかと思う。質的な差異をもつ現象は、そのまま新しい現象だ。持続のなかに身を置くかぎり、ひとつとして同じ現象はないのだから。そうして世界をつねに新鮮な思いをもって経験している状態を、人生が動いている、とひとまず呼べる。これに対して、停滞の状態とは、なにもかも同質性によって処理されてしまい、時間の抜け落ちた有限な空間のなかだけで生きている状態、つまり生活することが機械的な作業のようになってる状態だと言えるだろう。でも人間は機械ではないのでそんな生活はそううまくはいかないわけです。
しかしまあ、こう書いてみると、自分でも「簡単なことを難しく言ってなんの意味があるの」とかツッコンでみたくもなりますね。ただ、この場合、それは難しいというより、詳細であるのだ、ということは言っておかねばならない。詳細だからなんなの役に立つの、とさらに問われると困るんだけど、少なくとも哲学がおおざっぱになるとそれは死ぬと思う。粗い把握では世界をズバッと斬る気持ちよさしかもたらさない。欲しいのは、より深い理解なのです。この記事のばあいはその詳細さ、深さが足りないためにただ難しく言ってるだけになってるのかもしれない、けど、たとえばこの記事がやってることは、「生活を作業にするな」という教訓を引き出すよりは、その教訓にひとつの detail を与えることだ、ということは意識しておいていい(自分が)。


図らずして哲学語りが入ってしまいました。さいきん自分のなかでホットな話題なのでご容赦ください。実際の本の内容としては、この質的差異と同質性、ないし持続(時間)と空間などなどといった道具立てで、同質性や空間によって思考することが哲学の諸問題の発生源なのだ、ということを延々と説いていきます。そこで自由の問題が扱われるのですが……まだそこまで理解が至っていません。