Wikipedia 。手軽さがひとを spoil する言説ですね

俺が Wikipedia を嫌っていたのは、結局のところその手軽さにある。ブラウザ起動して数タイプ1クリックで知りたいことの概要を知ることができてしまう手軽さ。それが由々しき問題を引き起こしていると思っていたし、今でも(嫌いの感情は抜けつつあるが)思っている。 Wikipedia の記事を読んだくらいで知れた気になってしまうのがマズいと思っていた。その事柄について何かを言えるようになるためには、少なくとも新書の二,三冊は読んでないと。そう思っていた。今でもそう思っている。自分でも守れてないけど。 Wikipedia の記事で満足してしまう状況がおそろしい。半端な表層的な知識でとまってしまう人が増えると予想していた。世界の知性レベルが下がる。端的に言えばそういう危惧を抱いていた。実際は、底上げにはなったのかもしれない。きちんと調べる人は昔も今も調べるし。でも僕みたいな人もいる。なにか知りたいと思ったときに、 Wikipedia を見て安心してしまう人が。そうして危惧していた。自分と同じような人がどのくらいいるかは分からないが、まあでも少なくはないだろうと。
『岩波 哲学・思想事典』というものがある。哲学科生という身分ゆえにこの書物は何度も開いたことがあるが、この本、どうみても初心者向け入門用には作られていない。専門家向けである。哲学のさまざまの知識が前提されているし、文章も記述が圧縮されていて読みにくい。結果この事典が決定的に参考になったことは今までない。それはこの書物が悪いのではなく、もちろん、使うべき人が使わなかった、ということだ。さてそんな不便な岩波哲学・思想事典なのだが、事典の類って本来そういうものではなかっただろうか。その分野について「知る」のではなく「調べる」ために事典というものがあるとすれば、まあ予備知識は前提されていて当然といえば当然である。そして、予備知識を得るためには新書の二,三冊を読むくらいは求められてくるわけだ(岩哲*1はどうやらもっとハードルが高いようだけど)。つまり、言いたいのは、不親切なつくりの事典が、それについてきちんと知ることを促してくれる、ということだ。きちんと知る、という表現について説明が不足してますが、あー時間がないので許してください。そもそも、事典というものはただしく(ここでもいいかげんな言葉遣いになってしまいますが)作ろうとすれば、業界人むけの不親切なものになるはずなんじゃないか……とも思う。あ、いや、 Wikipedia は紙幅という制限がないために初心者向けの親切な解説も織りこめたのだ、とも言えるか。
まあ Wikipedia も記事によるんですけどね。一律な編集者がいるわけではないので当然ながら。数学関連の記事なんて、バリバリ業界人向けのノリで書かれてるのが多いし。いや、あれは数学という領域の専門性上仕方ないのか?
さて、この記事には、もともとの動機からすると、このような Wikipedia 批判は自分の地位、つまり何かを専門的にいちおう勉強しているというアイデンティティを守りたいというスノッブな意識からきているのではないか、という疑いをどこかでさしはさむ予定だったのですが……明日学校で試験が(朝から)あるのでここで切り上げることにします。――といいつつ少し。僕はだれかが Wikipedia を情報源として使ってるのをみると馬鹿にしちゃいますね。それがスノッブだと言った理由です。思えばテキストサイトのひとって、あまり深く知ろうとすることをせず、自分で考えるほうばかりが先行していた、そういう部分があったと思うんです。ハイ。こっちの話でした。

*1:と、僕はひそかに略しているんだけど、今ぐぐったら出てこなかったぞ