人生的な日記

逡巡しつつも書いてみる。下書き・清書と段階を踏み序論・本論・結論と文章を整えるヤルキがいまはないので逡巡しつつ、でも書きたいので書く。
近頃は、んー、これはバカにした表現なのではないかとおもうが、いわば“人生的”な日記をおもしろいと感ずる。ていうか、今日、いろいろの日記サイトをブラウザーのブックマークに読んでは突っ込んでいたのだが、その大半というかすべてが人生的な日記であった。人生的は、文学的といいかえられるかもしれない。ただし表現がアクロバットであったりエレガントであったりするわけではない。人生やら、生き方、といったものに深くかかわる事柄が書いてある日記。もつろん扱われる事柄だけではなくて、その扱い方、どれだけ地表深くめり込んでいるか、といったところが評価の対象となるわけだけども。評価の対象というとなんだか自分が上のようで偉そうだが、実質自分はけっこう偉そうな人間らしい。ほかの人の work や art に対して自分が評価を下すと、「上から目線」とかいわれることがあった。そもそも他者に対してなにかを言うということにおいて、自分は「評価」という視線しか用意できていないのかもしれない。さてそれは措いて、自分がそのような傲慢な(あるいは傲慢に映る)人間であった、それは事実だ、だとしても、だからといって、それを自覚したうえで、傲慢にふるまってよい、ということにはならない。傲慢にしてはいけない、ということにも、同時に、ならないが。どっちを選択するのが自分にとってよいか、という問題にほかならない。幸い、僕は、他者のしあわせが自分のしあわせにつながる、より正確には、他者のしあわせを意図した自分の行為がもくろみ通りに結実したとき幸福といっていい感覚を覚えるよーなそんなよーな傾向があるようなので、さほどエゴイスティックな倫理をもっているわけではない。なーんの話だったか。
人生的な日記、ということだった。人生的な日記はおもしろい。普遍的な価値をもっている。誰もが多かれ少なかれ人生を生きる。それゆえ誰もが、ある程度は深刻な(この深刻というのは、質的な深刻と考えるとよいと思います)関心をもって読むことができる。僕の日記には人生がない。とはいえ、大学二年も終わりにさしかかり、この先の進路のことなど考えはじめている。大学生にもなって進路なんて言葉使うと思ってなかったのだが、そんな現状にとって、(もンのすごくはしょって表現してしまいますが)「いかに生きるか」なんて話は、やはり関心を持って読める重要性をそなえている。それはウェブ日記におけるポピュラリティとよべる。……と、すると。つまり、僕としては、ポピュラリティなき日記に対してもまた確かな眼をもたねばならない、そういう気がする。もっといえば、それが自分の役目である気がする。いや、正確には、気が「していた」のだろう。マイナーなものばかり摂取していた時代があった。しかしそれは、対象に捧げられた鑑賞ではなく、自らのパーソナリティをそれら(もう、マイナーなもの、って繰り返すの恥ずかしいです)で武装するため、というのが大いにあった。いやいや、もちろん、マイナーなものにはいいものがたくさんある。というかなんか、人気があるかどうかってのは、それがそなえている価値が普遍的かどうか、という第一に話じゃんか。価値が高い低いというのは、人気を考えるには、また二次的な評価軸だと思うのですよ。ですからぼくはナニモものの良し悪しを云々しているのではない。ただ、……いまは、ポピュラリティのほうを摂取していく時期なのかなあと思っていて。それらが「いい」と思えるようになったのは最近なんです。それには自分のなかでの人間的な変化がかんけいしてると思うんです。どうも失速してきたのでここで閉じますね。