大人は判ってくれない。子供の感覚を大人は忘れてしまった。あの不合理ながら「〜〜せばならない」と命令する自分の心。大人は人間がことごとく合理性で動くと思っていやがる。それは、知識の増えた大人だけができることなのに。それが依然としてできない部分を大人だってもっているはずなのに。脳科学とかより心理学の啓蒙がほしいですねえ。理科系より人文系の知をわれわれは求めてると思うのですが。大人は子供を誤解ばかりしている。すべて大人の常識で裁いてしまう。
愚痴でした。付け加えておけば、分かってほしいのは自分のことではないです。僕はすでに大人に片足突っ込んでいます。


ところで、最近また論理学を再開した。
論理学をつくる
これ。買ったのが大学一年の前期で、それから二回ほど中断・寄り道している。先日ようやく第 II 部に入った。数学の勉強をしているとなんか調子がいい気がする。いうなれば知的健康が保たれているような。今、これとは別にネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』を読んでいるんだけど、これはおそらく半分は訳文のせい、半分はおそらくネーゲルの議論のやりかたのせいで、なかなか森の中に迷い込んでいるかのような感覚のなかで読んでいる。近頃現在アタマも冴えてるとは言いがたい状況なので、ワンセンテンス前の内容を忘れてしまう暗闇のなかで読んでいる。それがいちばんの要因だといえるな。しかしまあネーゲルの文章は、「論証する」というより「説く」といった趣で、「この人は何を言おうとしてるのかな」と思って読んでいくとぼんやりと主張が浮かんでくるタイプの作者だと思うので、森の中。僕の理性がだいぶ迂闊だってのもあるでしょうけれど。それに対して論理学は記号論理学であり形式論理学なので、あくまで「何してるか」ってのは明瞭。形式を大切にするので単位記述量あたりの内容はそこまで豊かにならない、ってのもありましょーが。


ところで僕に仕事をください。文筆業じゃなくってさ。バイトですよ。