より高いものとしての美

電車で、どきどきするほどすばらしい脚の女子高校生を見た。僕が「美しい」と感ずるのは、こういうときばかりである。女子高校生の、スカートから出た、肉のよくついた脚を見たとき、それから、自然美である。この二つのときに僕はその美しさに立ち尽くす。そんなとき、抽象された単なる性質、それに付与された価値、を超越した「美」というのは疑いなくある、と思う。
彼女は運動をやっているに違いない。だからあんな立派な脚をもっているんだ。自分でも運動をやって、あんなような美しさを手に入れたいと思う。肉体美ってのはいい。人間は肉体を持っているんだから、その機能を備えられてるだけ行使し、その魅力を最大化するというのはまぎれもなく正しいことのように思う(古代ギリシアはこういう思想を持ってたんでしたっけ)。その魅力や美感が官能と結びついてるってのは否定しないけど、美のダークサイドが官能なんではなくてむしろ官能は美と不可分に結びついてると言いたいところ。
僕は彼女を自分のものにしたいと願う。その「美」を手に入れたいと思う。だがそれは叶わない。たとえばその彼女と付き合うということが美を所有することではない。僕が求めるのは、いわばその美と自分が合一する、というようなことだ。だが、この記述からも嗅ぎとれるように、実のところ、美を手に入れる、とはいかなることなのかはまともに理解できない。それはあり得ない可能性に耽溺する倒錯した願いだと言える。手に入らないものを欲望する、しかも、自律的な欲望*1ではなく、それを現実に自分のものにもたらそうとする、矛盾した願い。それは無明である。それは苦を引き起こす。こういう欲望を偽りのものとして回避するのが平常の僕のスタンスだ。
……だが、女子高校生の脚に見とれている僕にとって、「美」の実在は疑いえない。そんなとき、プロティノス的な美の観念――根源的な一者から発せられる導きの光――も、あながちバカにできないものだと思われてくる。一者との合一とか、あるいは禅におけるさとりといったことは、このタイプの美を追求した果てにあるもののような気がする。そういう神秘主義的なものをマジで信じる気にもなってくるのだ。

*1:後述。こんど書きます