関係と距離

(大事なことを書きかけて書き切れていないのですが書ききる気が起きないので関係ないことを関係なく書きます)
いわば、関係と距離の密接な関係。ろくに調べもせずに密接だというのは、まあ、レトリックですね、というよりは自分が書きよく文章を書くためのテクニックというよりは書きやすいように書いているのですね。関係と距離が密接な関係をもつかはわからないが、少なくとも関係と距離は関係している。ここで言葉を整理しましょう。ここでいう関係とは人間と人間の関係です。人間関係というよりも、もっと広い意味でのかかわりあい。すれ違う人との視線の交わしあいもまた、関係。そして距離とは空間的距離です。心理的距離ではない。むしろ、空間的距離が心理的距離を演出するのだといえる。しかしながらこの「演出」という表現の意味するところがよくわからないですね。われわれは空間的距離という舞台のうえで人間関係という劇を演じているのだということでしょうか。そういうことではない。まあまあ単純に、空間的距離が(実体ではない)心理的距離を創り上げるということを言いたいのです。心理的距離は、健常なるわれわれの生を取り囲むなになにであるところの“意味”の一種ですね。意味には実体がありません。たぶん。
(中略、編集済)
関係と距離、なんですけども、僕が今日確証を強めたのは、人間と人間のあいだに関係が生ずるにはどうしても空間的な近さが必要になる。また逆に、空間的に近づくと、いやでも関係が生じる。どっちかというと後者のほうが確実かな。川沿いを散歩する僕は、後ろから抜かさんとするスピードで追い上げてくる男に気づいて、抜かされまいという気をすこしだけ起こして歩みを速めようとする、そういうことはたぶん誰にでもある。ここで僕は、その男と(一瞬ではあるが)競争という関係に入っていたのだ。関係の名前や内実はまあ別にいいんですが、いったん関係に入ると、相手が自分をどう思うか、ということがわずかでも切実さをもって関心として現れてくる。この場合、「追い上げられてる」という勝手な読み込みを知られたくなくて、平静を装うとか。あと、ジョギングしてる人は、人とすれ違うとき、自分の荒い息を抑えようとするんじゃないでしょうか。なぜ、というとちょっとわからないんだけど、でもハアハアいいながら走ってるのを知られたくない気がするのは事実( gentleman じゃないのが厭なのかな)。かように空間的な近さは関係を演出し、関係のなかで私たちは相手の視線を気にかける。むしろ、相手の自分への捉えを気にするというのは関係の本質とも言えるかもしれないね。P.グライスさんが発話の意味について似たようなこと言ってた(らしい;原典未確認)。