欲求・欲望再論

前に (2011.1.27) ちょっと触れましたが、改めて。
欲求は、じつは、ものごとの推進力にはならないのかもしれない。そんな思いが日々強まっている。いや、いや。それはどこまでも一般化はできない。たとえば三大欲求――食欲、性欲、睡眠欲――なんかは、必要不可欠にものごとの推進力となっている。食欲がなければ食事はひどくつらいものになるか、そうでなくても味気ない無意義な時間となるはずだ。あたりまえだが、食べたくないとき食べるということは、苦痛はともなっても快楽を催すことはない。性欲・睡眠欲に関してもおなじである。だがそれ以外のものに関しては、欲求は、かならずしもその成就を意義ある体験にするとは言えない。三大欲求に属するものは、生理的な目的という、はっきりした基盤をもつ。どうすれば成就されるのか、どうすれば一応達成されるのかが明白である*1。その点、生理的な基盤をもたない欲求――たとえば「いまスピッツの『渚』が無性に聴きたい」とか、「世界史の充実した資料集が欲しい」とか――は、そうではない。
なにが「そうではない」のか。じつは、三大欲求についてもまた、そのとき具体的に思い描かれた欲望*2については、これが達成されたとはいいがたいケースのほうが圧倒的に多い。例えば、ある時期私は、大学で 5 限(だいたい 4 時から 6 時まで)の授業を受けていて、その半ばを過ぎたころにきまって切実な空腹を覚えていた。ものが食いたい。いや、もっと具体的に、私は、コンビニで惣菜パンを買い、食べる、という想像を毎回楽しんでいた。その授業は仏教に関するものだったので、なんちゅうか、という感じですが(欲にとらわれてる俺……)。さて、授業が終わると、ときによって私はその欲望を成就すべく、学内のコンビニへ赴き惣菜パンを買い、駅まで歩きながら食べた。これは描かれた欲望内容の忠実な再現である。ところがそれでは満足しなかったのだ。なにかが違う。私が予期していたのは、もっとなにかすばらしい体験であったはずだ。われわれは欲望のなかで、ありうる体験を理想化する。理想には現実のなにごともかなわない。そういう事情もある。だがそれよりも、そのとき私は満腹になることを望んだ。惣菜パンのもたらす味覚的快楽も期待したほどではなかったし、これではいたずらに腹をすかすだけだ……。
ここで、私は、二重の意味で満たされていない。ひとつは「うまいものを味わう」という謂わば美的な欲求が満たされないこと。もうひとつは、満腹に達せず、食欲が満たされないこと。これらのうち、前者すなわち美的欲求、あるいは理想化された事態への欲望*3、は、一般に満たされることがない。食べることで欲望が満たされたように見えることもあるが、それは、ものを腹一杯食べて、生理的な食欲の方が満たされたので、美的な欲求のほうが隠れてしまったにすぎない。ここで、理想化された事態への欲望と美的欲求そのものとは区別されている。美的欲求は、たとえば「美しいものを見たい・聴きたい・これに触れたい、要するに美的体験をしたい」というような、ほとんど無内容な形で述べられる。そういった欲求はありうる。しかも満たされうる。ふと美しいものを見て、自分のなにか満たされなかった部分が満たされたと気づくことはある。だが、それに具体的かつ個別的な形(たとえば「東京都現代美術館で○○の作品を見てうっとりしたい」*4)を与えると、とたんに理想化され、手の届かないものになってしまう。この欲望には、その「○○の作品を見ることで私はうっとりするだろう」という予期あるいは意志が含まれているが、たいがいの場合は、実際問題そうはいかない。その週の日曜、満を持して東京都現代美術館に赴き、さあいよいよだと期待をもって○○の作品を目にしたとき、予見していたほどの興奮や引き込まれを感じないのが常である。
その理由には、ひとつは、何度か繰り返しているように、欲望において予見された事態はありうべき可能性のなかで最も美しく理想化されてしまうゆえに、その実現のハードルが超越的に高くなってしまう、ということがある。だとすれば、ここで提案なのだが、欲望に現実を合わせようとするほうが無理というものではないだろうか? 「世界が俺の理想になれ」と願って叶う道理はない。ならば、欲望との付き合い方を変えるのが賢明だろう*5。私の提案は、つまり、欲望は欲望だけで完結させよう、というものである。欲望を楽しむのはいい。手に入れていないあれこれに思いを致すのは、抑えがたく楽しい。だが、それを実現しようとすることは別である。欲望は、それが描かれてしまった時点ですでに欲望それ自身のうちに自らを実現させてしまっている、と言ってもいい。欲望はあたかも一種のアートのように、現実を参照せずに自律的に成長していく。“何をすれば自分は気持ちよくなれるか”を精確に予見する能力は高くないにもかかわらず、欲望はどんどん勝手な詳細をつけていってしまう。そこで大事なのは、「今、何をしたいか」に没頭するよりも、「自分が何を必要としているか」を見極める観察的態度である。欲望が自分のおかれている現状について何かを示唆する、ということはある。だがその具体的な内容を鵜呑みにしてはいけない。欲望の示す細部は、いつも的を外している。だから、欲望が生じたときはそれを楽しみつつ、しかしあくまで欲望の世界で遊ばせておくのがいいのではないかと思う。

*1:女性の欲求――特に性欲――に関しては、もしかすると、より複雑な事情があるのかもしれませんが

*2:以下、具体的な細部をもつものを欲望とよび、これを欠くものを欲求とよぶことにします

*3:つまり、僕は、細部をもつ欲望はすべて美的欲求のあらわれとして扱えると考えています

*4:現代美術は、それを見てうっとりするためのものかどうかというと、そうでない気もしますが。尚、作家の名前を具体的に挙げられなかったのは、筆者が現代美術に通じていないというあまり格好のよろしくない事情によります。てか素直にポピュラー音楽とかの例にしとけばよかったって……

*5:ここで、あくまで世界のほうを変えようとする人たちのうちに、大成する人、というのはいるのかもしれませんが