日常と意味。たとえば。

意味について思うことが多い。ちかごろ。意味は私たちをとりまいているものである。とりまきかたが自然すぎて、ほとんど取り出してあれこれあげつらうことも難しい。というか、われわれは意味の中で暮らしているゆえに、意味の外を思考することができないように思われる。すると、意味について考えること自身なんら意味のないことになりはしないか。でもなにかあるような気がする。意味の外側を、考えることができるような気もする。
そんな粗野な書きかたででしか今は言えないが、意味。意味とはなんなんだろうか。たぶんこの問いかたもまずい。粗野な書き方を重ねてしまえば、意味とは扱われるものではなく、ただ現れてくるものなのではあるまいか。粗野なので気分だけ、ですが。
「人生の意味」ありやなしや、ということを考えたことは誰しもあるだろう。そして多くの人が「ない」という答えに至るらしい。でも「ない」というより、そもそも問えないよね、というのが僕の立場だ。人生の意味を問うことは、人生の外側に立つことではないですか。そして、人生の外側には意味空間はない。意味は人間の作り出したものだ、というか、なんというか、意味は人間が人間であることの前提とか背景であるというかなんというか。僕の言っているのは、自分の人生の意味、ですね。ようするに自分が死んでしまえば自分の人生に意味があろうとなかろうと関係ないわけで。と、いうのもひとつの価値観ですが。
ところが、「生きる意味」については、あるとかないとか言うことができるように思う。というか生きることがいつでも意味のなかで生きることなのだ。身体の不具合で、熱さ冷たさや痛みといった皮膚感覚が失われてしまった人があるらしい。そういう人は、無気力になってしまうのだという。こういうとき、「生きていても意味がない」(この「生きる」は、生物としての生存)という思いも生じるのではなかろうか。それゆえ僕はこれを、生きる意味が抜け落ちた状態ととらえる。というよりは……生そのものが抜け落ちたというか。
今日、散歩をしていた。日が照って暖かくて、風が吹いていた。川辺を歩いた。楽しいでもなく、退屈でもない。名前の付いていない感覚。でも少なくともぼけっとしてはいた。僕は世界についてなにかを解明したりはしない。僕は歩いているだけだ。意味の抜け落ちた状態。だが、喪失感ではない。充実感でもない。生の渇望もなければ生の充溢もない。ただ「ある」ということ……というのもしっくりこない。むしろ、ただ「世界」といったところか。世界内存在ではなくて、端的に、世界。私があるというよりは世界がある。(ハイデガーは読んだことありませんが大森荘蔵は読んでます。)
僕は、そのとき最も基本的なラインで“意味”をつなぎとめていたのだと思う。そこがきっと、無気力になってしまったあの人と状況をちがえる部分だ。そして、その最も基本的なラインにおける意味をつなぎとめるものは、皮膚感覚だったんじゃないかと思う。日光の熱と風を感じる皮膚。触れるということが、なにより先にリアリティを保証する。もちろん皮膚感覚だけじゃないけど。