近況か。

日記のタイトルに句点を打つような手合いが僕は一般的に嫌いなんだけども、いざ自分で書くとなると句点を打つほうが自然に思われることはよくある。けれど、ひとつ弁明をするなら、僕の句点の付け方は文に対してつけるということであって*1、体言に対してつけるということではない*2。だからわざわざ自分の部屋を狭くするようなことを言えば、体言に対して句点を付けたタイトルを僕は嫌う。でもそれがなぜなのかはわからない。詳しく検討してみたこともない。もしかしたら体言+句点も、自分にとって自然であると思われるかもしれない。というかそもそも俺は、文に句点をつけたタイトルも嫌いだとかつて言ったぞ。こうやって僕は、自分が嫌いだった技法を身に付けていく。自分が嫌いだった人間になっていく。たぶん、そのことには矛盾はないんだろうけど。この「嫌い」は、「こうあるべき」の裏返しではないから。そうではなくて、……せいぜいが、あまのじゃくの所産だから。ひとと違うことをするのが好きっていうだけだ。平凡・平均を嫌っているだけだ。だから、いわば僕の「こうあるべき」は流動する。今や日記を書く人が多数派じゃないところがあるので、狭いコミュニティのなかでアマノジャク精神を発揮する契機もなくなった、というべきか。


『論理学をつくる』、第 II 部まで終えた。
論理学をつくる
なんだかんだで続いてる。ヒマだからね。流れが見通せてくるとスムーズになるかもしれない。春休み中に読み切れるだろうか。
論理学は論理トレーニングによいという話があるが(論理学は思考の「高地」トレーニング」である/ロジック・アズ・ブロックバスター 読書猿Classic: between / beyond readers)、この本なら自然言語形式言語の相互翻訳のとこがいいトレーニングになってるかもね。多重量化とか同一性が入ってくるとなかなかこれが難しくて、神経尖らせないと正確に読めない。この本、たぶん途中でやめてる人が多いと思われるので、タブローとか定理の証明とかは飛ばして翻訳だけでもやってはどうか。いや、それじゃ論理学の勉強にはならないだろうし、数学的な部分をやることもまたトレーニングにはなるのだろうけど。タブローを作ったりすることは戦略を立てるトレーニングになるし。


まあ近況と書いたので簡単に。一、バイト決まりました。とうとうレギュラーのバイトですね。詳細はまだ決まっておらん。大学三年となるとシューカツ、シューカツという声が聞こえてくるのでそろそろめんどうなことになりそうです。シュウカツしたくねえ。二、あと彼女作らなきゃという機運が高まっている。 intimate な関係を知らないんじゃあ世界の半分を見落としてることになるね!とは何かの引用ではなく自分がそう思うので、まあなんとかしたい。こういうときに 2ch が頼りになる。まずは調査だ。

*1:このタイトルが文法的にみて文なのかは別として、ひとつの完結した発話ということで

*2:いやでも体言に句点をつけたらそれも完結した発話になるんじゃないか。というわけでこの主張はすでに破綻しているのですが