哲学の勉強は長い、数学の勉強は辛い

つかれた。意志にかんする哲学的論考の書きかけのものを、また書き足していた。完成するのはいつになるかわからぬ。もしかしたらついに完成しないかもな。哲学ですでに行われている議論をなまじ知っているために書けなくなる……というのはどちらかというと嘘である。なにか自分にとって新しい話が書けても、辿りついてから見まわしてみると「あっこれ○○がもう言ってる」と気づいたりしていまさら公開する意義ねぇなあと思う、そういうのはまあよくある。ただ、自分でものごとを考える、という純粋にその目的について言えば、哲学のいろいろな議論を知るのはありがちな誤りを効率的に避けることができ役に立つなあ、という好意的評価のほうが強いかな。
というわけで以下なにを書こうとしたか忘れた。先日の続きですが、物理、いきなり微積の壁にあたった。数 III やってないんですよ……。でもまあ仮にやってたとしても高校の数学は厳密さを欠くというもっぱらの噂であり僕はそういうの苦手なので、いずれにせよまともな解析学の勉強を簡単にでもやっとかないとなあ。浪人生のとき『高校数学+α』でそれなりに苦労して勉強したり、大学で一般向けの微積の授業とったりもしたが、それでもだいぶ忘れてるのもあるし体系的な解析学の勉強は一度しときたいなあ。
そういえば本日の日記の(てきとうな)タイトルを書いて思ったが、さいきんは私は勉強者である。量としては言うほどではないのだが、存在の仕方としてはそんな感じ。考えるより読む。まあ考えながら読むことは昔と比べてすこしずつできるようにはなってきているが。なお、内実としては、哲学の勉強は寄り道が多い、あっち行ったりこっち行ったりしながら進むしかない、というようなこと、数学の勉強は、……うーん数学書を読むのは哲学書を読むのと同様な負担があるよね、くらいのことだと思います。でも制度が整備されてるぶん、数学のほうが勉強しやすいのではないかと想像します。用語はきちんと定義されてるし、何をしてよくて何をしていけないのかもはっきりしている。でも寄り道しづらいのは辛いのかも。