疎遠

様相論理がおもしろい。そうツイッターに書こうとしたが、それがタイムラインの流れにそぐわないように見えて、書くのをやめた。ああ、OK。インターネットは自分の好きなことを自分の好きなように書く場所。それを見たいやつは見るし、見たくないやつは離れていくそれだけ。インターネットでは多様性こそが大事なのだから「流れ」を考慮することはむしろすべきでない。OK。確かにそうだ。それが俺の立場だ。しかし今日は、いつもの規則には反して、流れに逆らってまでツイッターに投稿したくはない、というのが気分だった。
そのあとはてなアンテナをチェックしようとした。だけどひとつめのページを開くまえにやめてしまった。俺はそもそもインターネットに対する志向性がいま薄まっているんだろう。そういう時期は、たまにあるんだ、思い出した。
そうしてこの日記を書きはじめた。ツイッターは書かなくても、日記は書く。要するにそれは、日記を書くという営みは、インターネットへの参加に依存しない場所で存立している。ネットを見ずともネットに書く。かつてもそう書いていた。これ↓。
http://d.hatena.ne.jp/squareroot/20100404/1270360910
「今は、ネットで素人が書き散らしたものよりも、プロがよく練って作り上げた作品のほうが読んでて面白いなあと感じるターンだってことだ」と一年前の俺は言っている。確かにそれはだいたい肯定できる。情報の重要性において、ほとんどの場合ツイッターの発言よりも書籍のほうが優位にある。なるべくひいき目なしに整理すれば、ネットが書籍よりもすぐれているのは、もっぱら参加者の幅においてだろうと思う。ネットではいろいろな人を見つけることができる。もっとも、近頃では平均的なふるまいをする人が大量に参入してきて、それも難しくなってきたが*1 *2
話を戻せば、ネットで書くということは、やはり“自分が書き、それを自分で読む”という構図が基本にあるのだと思う。それにプラスアルファで「誰かが自分の書いたものを読む」「たまに反応をくれる」というのがある。それはそれで重要なことだが。

*1:追記、それから、かっちり造られていない、素の、ナマの声が聞ける、というのもネットの長所だろう。だからみんなには日記を書いてほしい。ツイッターじゃあ、書かれた言葉はただの情報なんだぜ?

*2:なお、先の注に関してさらに注なのだが、「効果的に伝える」のがどういうことかを考えておくことは必要だ。「素の、ナマの声」は、稚拙な、意味不明な表現を正当化するのに悪用されがちである。それよりは、よく練られた表現の方がよほど「ナマの声」を伝えているに違いない。だが、私たちはまた、「稚拙な、意味不明な表現」を、その背後にあるものを読むことで、適切に読むこともできる、そのことは頭に留めておくべきだろう。でもそれは疲れるんですよね、けっこう。