反省的意識

明日はこの本を買いに行こう。そう決めてうきうきする私。きっといい本に違いない。 amazon.co.jp での評判もよいし。アマゾンの評価はあてにならないものも多いけれども、どれがまともな書評なのか、どういう表現が(少なくとも自分にとって)良書のサインなのか、見分けることもできるようになってきた。東大出版会だし、一定の質は保証されているはずだ。 1986 年発行で今でも流通に乗ってるということは、それなりの理由があるつまり細ぼそとであれ読み続けられている or 出版社が絶版を避けるべきと判断するような、必要とされる本だってことだろう。たぶん、間違いない。
ないのだが、こうして証拠は揃ってはいるのだが、だから件の本がよいものであることはほぼ疑いなきことなのだが、他方で「うきうき」するというふるまいには、本の知的可能性(とでもいおうか)に対する過剰な信頼、あるいは信仰や比喩的に言えば崇拝、といったものがみえる。まるでその本がすべてを解決してくれるかのように。その本を買うことが最終的勝利を約束しているかのように。思ってはいないだろうか。僕はむかしっからそういうところがある。そこで、読めもしない本をばかすか新品で買ったりもする。長年の背伸びの甲斐あって、最近になって少しずつ読めるようにはなってきてるけど。まあ読めてない本のほうが圧倒的に多いわな。
完璧な本というものはない。同時に、本に完璧を求めるべきでもない。事典にすべてが書かれているわけではない。必要な知見は、図書館の書庫に眠ってる、名前の聞いたことのない本に載ってるかもしれない。とりあえず「この一冊に必要十分なすべてが」というような思いなしは危険である。だからひとは新聞を読むのだし。しかも、情報は必ずしも適切にまとめられているわけでもない。マイナーな国の歴史が欲しかったら、断片的な情報を集めて自らがそれを書くことにもなりうる。まあでも国の歴史ぐらいだったらどっかにあるのかなあ。ともかく基本は、自分の頭を基点にして整理する、ということである。知識や認識を増やすことについて言えば、本はその素材に過ぎない。実は素材であるのに、それを完成品であるかのように見てはいないか。
そういうことを考えると、やはり買うのは今度にして、まずは図書館で借りてみてはどうか……という妥当な提案が威力をもって現れてくるわけだけども。でも本そのものに価値を賦与してしまう癖はすぐに抜けるはずもなく、実際に店で見てみてよさそうだったら買っちゃうのかもなあ。なお、補足。僕が特定の本を好み、称揚するのは、その著者の beautiful mind*1 に触れたいという思いあるいは欲望もかかわっている。つまり、学術書もある意味では文芸として読まれる。文芸?というか、うーん。ぶっちゃけ全体を通じて言われてることにはあまり興味がなくて、散文の中からさまざまに示唆を受けたいですね、というのが僕の読書に臨むスタンスなのか。そういうわけで、きちんと読めなくてもぱらぱら眺めてるだけで幸せ、という部分は確かにあると思う。

*1:同名の映画は見たことありません