話はいつも同じふりだしに戻る

日曜日の朝はこんなことを考える。高校時代好きだったあの人のことを思い出す。彼女のことはいまも意識を離れねぇ、特別な位置を離れねぇ。一生この半関係は続くんじゃねえかと思う。もう今は、あわよくば付き合いたいナという気持ちは起こらない、少なくとも自己診断ではそういう気持ちはない。でも思い出してしまう。こりずに頭の中をぐるぐる飛来する。それは決して不快な状態ではない、しかしながらどこか disturbing ではある。不健全な気がする。大人の人間の生き方として不健康だという気がする。いつまでも引きずるのは、或る意味で障害を背負ったようなものではないか。なるほど、障害はただちに取り除くべきだ、という立場に与するのは危険だろう。だけど取り除ける障害なら取り除いておくべきではないか、その先に絶えず進もうとすることが人間らしくあるという事なのではないか。いつまでもあの人のことばかりぐるぐる考えて何も起こらず死んでゆくのは人間らしくないのではないか。いや、きわめて人間らしいというかもしれないけど。でも少なくとも健康ではないよね。
人間らしくあることが至上絶対の価値であるかのように楡は語っている、と読まれるかもしれない。それはほぼ当たっている。いや人間らしさが価値であるというよりは、価値という概念自身が人間のいとなみのうちに包摂されている。人間は価値とかいろいろ概念を使うことで集団を形成する動物なんだと考える。価値があるとかないとか考えるのは人間に固有のありかたなのだ。人間らしさは価値と独立にあるわけではなく、また価値は人間らしさと切り離して語れるわけでもない。人間らしいことを自由に選択して目指すんではなくて、目指すものがまずあり、それが仮に「人間らしい」と呼ばれている。そういう感じだ(説明が苦しい。自分の中でもまだ消化し切れていない)。とにかく「人間らしい」というクッションは実のところ消去できるのであって、「よい」という無定義語が残る。つまり、絶えずその先に進んでいくことこそが「よい」ことなのではないか、僕はそう直観する。早く彼女作っちゃえよ。そういうことである。
ところが、と続けてしまうのが僕の悪い癖なのかもしれないが、そうすんなりとはいかない。第一には、あの人ほどすばらしい人に僕はお目にかかったことがない。いや、たぶんそれは嘘だ。それは彼女の呪縛から抜け出していないだけのことだと思う。たぶんすばらしい人は、いる。いや、むしろすばらしい人などどこにもいないのか。高校生当時の僕が、なんらかの巡り合わせによって彼女を超越的な位置に据えてしまった。あるいは頭の中でそう定義した。僕のなかに「どんな人でも、彼女に比べれば――」という判断機構を作ってしまった。いや、そんな比べるわけじゃないけど。より今の考えかたに定位して言えば、どんな人でもそれなりに付き合うに値するし、同時に、どんな人でも絶対にこの人が運命の人だ!ということはない。例の彼女も、いってみれば「よくあるタイプ」ではあったのだ。そこでは誰もが質的には均一で、ひどい言い方になってしまうがどっちがマシか、という話でしかない。だから付き合うとか付き合わないとかは偶然のめぐりあわせ、あるいはお前の意思次第、ということであった。
であるのに、俺は進んで彼女を作ろうとはしていない。ということは、俺はまだ必然的な出会いを待っているのか? そうではない。いや、そうではないはずなのだが。いや、うーん。むしろ、彼女を作ることへの恒常的な必要性がない、ということなのか。消極的なんだよな。彼女がいなくても、大学生活はそれなりに楽しいし。でも、それもそれなり、ということは否めない。「その先」があるはずなんだ、という気もする。「その先」も究めるとどこまでも行けてしまうけど。うーん。しかしまあコミュニケーションの場で、うーんもうひとつ、と感じてるというのはある。いろんな人に会って自由に話をしてはみたい。んー。コミュニケーション能力、だなあ。